悪口は受け取らなくて良い
わたしは特定の宗教を信仰しているわけではないが、自分の生き方を模索していた頃、仏陀の経典に関する本を読んでいたことがある。
そこには、この世の真理と思える教えがいくつもあった。
宗教というよりは、生きていくうえでの智慧として読んでいたのだが、年齢を重ねた今、これらの話が人生を送る上で、バイブル的な要素が詰まった凄い内容である、ということが良く分かる。
巷でよく聞く、自己啓発系やスピ系の人達が話している話の中には、表現は違えど、2,600年前に悟りをひらいた釈迦により説かれているものもあるのだ。
その中で印象に残っているものの一つに、「悪口は受け取らない。」という話がある。
簡単に説明してみるとこんな感じだ。
悟りをひらいた釈迦(仏陀)は、人々の尊敬を集めていた。
その尊敬されている姿を心良く思っていなかった異教徒の男が、仏陀の散歩のルートに待ち伏せして、群衆の前で散々悪口を言った。
しかし仏陀は、それをただずっと黙って聞いていた。
そしてその悪口を言い終わった後に、男に対してこう言う。
「あなたのところに客が来て、あなたがその客に食べ物を出したとして、その客が食べ物を受けなければ、その食べ物は誰のものになるだろうか?」
そこで男はこう返事をした。
「それは言うまでもない。客人が食事を受け取らないのだから、その食事は出した主人のものになるだろう。」
それに対して仏陀はこういったのである。
「あなたが差し出した悪口(食事)をわたしは受け取らない。その悪口は差し出したあなたのものだから、そのまま持って帰るがよい。」
言われた男は「はっ」として、何も言えなくなってしまった。
この話を読んだときに思った。
反応すれば相手と同じ。
同じ土俵に立ってしまっていることになる。
相手が出したエネルギーを受け取ってしまえば、自分も同じエネルギーに毒される。
いわば双方同等の状態。
怒りに対して怒りをもって返すという行為には、自分にとっての苦しみが待ち受けている。
反応するということは、自分にも「怒り」という不要な感情エネルギーを発生させていることであり、それは何も感じていない、反応していない状態の自分と比べると、不快な状態である。
その感情に囚われ、苦しむことになるからだ。
他人の不要な感情は受け取らないこと。
反応しなければそれは自分のものではない。
だからこそ、不要な苦しみも発生しないのだ。
それ故にこの「反応しない。」ということが、こころをニュートラルに保つには必要なことなのだ。
しかし、人に誹謗中傷されたり、悪口を言われればだれでも悲しくなったり、落ち込んだりするだろう。
全く気にしないというのは、なかなかできないことである。
その場合は、それを気にしている自分や言われたことに反論したい自分がいるなら、まずはその気持ちや感情を素直に受け入れて欲しい。
反応を最小限に食い止めるためには、これは必要なことだと思っている。
本当にこころの強い、そして自分というものをしっかりと持っている人は別として、ほとんどの人は動揺してしまう。
だからこそ難しいのだが、「相手の感情を受け取らない。」と決めることは、非常に重要だ。
理不尽なことを言ってくる人に対して、あれやこれやと考えて、自分の大切な時間を消耗する必要はないのだ。
かつてのわたしも、人に言われたことに過敏に反応して、いつも心が疲弊していた。
人に言われたことを真正面から受け取って、「こんなことを言われた。」と言っては気にし、「こんな態度を取られた。」と言っては余計に考えすぎて苦しんでいた。
他人を気にしてばかりで、自分が無かったのである。
そしてこれも反応。
不都合な反応は悩みの種となるのだ。
でも歳を重ね、図々しさも重ねたのか、人のマイナス感情に振り回されることも少なくなった。
今だからわかる。今だから書ける。
仏陀の教えの奥深さである。