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短編 星々の夜

 「で、土壇場で怖くなって逃げ出したってわけ?」そう葉子は如何にも芝居掛かった呆れ顔をつくる。

 それに対し僕はグラスを掲げ「そうだよ、その通り」と返す。

 「情けない」彼女はそう首を振り、続けて皮肉っぽい笑みを浮かべる。

 「ウブなネンネじゃあるまいし」

 僕はそれらをさも意に返していないといったふうに首をすくめ、ワインを呷る。

 「別に怖くて逃げたわけじゃない。ただ少し、実際に迫られたら冷めたんだよ、冷めたんだ。それだけ」

 「でもその人に送ったんでしょ、”怖気付いて逃げました”って」

 「そりゃ弁明くらいはしておくさ、彼を裏切ったのは僕なんだから。それに、できるだけ角は立たせたくないだろう?」

 「まるで子供の言い訳のね」そうため息をつく。先ほどの皮肉っぽさはなりを顰め、その顔は恩着せがましい友人の顔になりつつあった。

 「素直に謝った方がマシよ。その人、勘づいてると思う、十中八九。そんな言い訳で心根を隠せやしない。下手に取り繕ったところで印象を悪くするだけ」

 僕は笑い、肩をすくめる。

 「さっさと済ませれば良かったのよ、セックスなんて、コミュニケーションの一形態でしかないのだから。それに、あなたみたいな拗らせたネンネの相手をしてあげようなんて好事家、そう現れやしないわ」

 「余計なお世話。それに僕が拗らせネンネなら君は性悪小僧だ」

 そうグラスを持った左手人差し指で彼女を指差した。直後、一気にあおる。中身の安ワインは生ぬるく、きつい酸味が鼻腔をつく。ため息は重く、不快感誘因物に溢れている。

 「それに生憎、僕は凝り性なんだ、どこかの誰かさんとは違って」

 わざとらしく髪をかきあげ、芝居がかった風に勤めた。

 「魅力を感じない相手と寝るなんてゴメンだね」

 グラスの縁に、葉子が中指で円を描く。

 「それはその通りね、でも」

 「あなたに魅力を感じる相手がどれだけいるのかしらね?あなたに好き好みする権利があるように、彼らにも相手を選ぶ権利があるのよ」彼女はグラスを撫ぜるのを止め、目を細める。

 「大勢いるさ、僕の魅力なら」

 葉子は小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。

 「自信過剰」

 「過剰で結構。卑屈であるよかよっぽどマシだ」

 脚を組み変え、ついで深く座り直す。

 「君もそんなご高説を垂れるくらいなんだ、さぞ豊かな経験を積んでるんだろう」

 煙草を一本、カートンから取り出し彼女の前に出す。彼女は首を振った。

 「貴成くんといったかな、例の彼」

 僕は俯き煙草に火をつけ、葉子はそっぽを向いた。

 「別れたんだろう?」

 「誰から聞いたの?」

 「誰からも。強いて言うなら君自身から。もうロクに彼の話一つしなくなったじゃないか、かといって彼のことなんてもう毛程にも興味ないんだ、そう言いたげな風でもない。聞かずとも分かるよ」

 目前の女を前に僕は身を乗り出し、上目遣いに見上げる。「で、どんな具合に捨てられたの?」

 「傷心中のレディに言う台詞じゃないわね」

 「思ってもないことを」苦笑い。

 「傷ついたのはあくまで自尊心だろう、コケにされたっていう」

 彼女の瞳を覗き込む。無表情に徹しようとする理性の底に、激しい不快感が燻っている。

 「どちらが性悪か分かったもんじゃない。」しばしの沈黙の後、彼女はそう吐き捨てる。

 断りもなく置かれたカートンを開き、取り出し一本取り出し火をつける。一度、二度としくじり、三度目でようやく点火に成功する。一足先に灰に還った吸殻に代わり、薄暗い室内に非常灯のような輝きを放っている。赤色矮星の暗い灯。部屋の隅には卓上灯の斜め下を照らすサーチライトによってかき消され決して届かず、かろうじてテーブルと葉子の手元を照らすばかり。小さな星はニコチンとタールをたっぷり含んだガスを噴出しながら、その質量を急速に失っていく。

 彼女の様子からプラセボが、ニコチンよりも早く効果を発揮する様が見てとれた。

 「言っておきますけどね、見限ったのは私の方。あいつの強烈な自己愛と押し付けがましさに嫌気がさしただけ、それだけよ」

 再度一服。ダイバーのように、深々と吸い込む。その後、軽く咳き込んだ。

 「素直じゃないなぁ」そう苦笑いを浮かべる。

 「認めたらいい、自分はコケにされたんだって。下手に取り繕うことはない。その方がいいじゃないか、そうした方が憎み易くなるだろう」

 「お生憎」そう彼女は軽蔑の一瞥を投げかけた。

 「私は度量が広いの、誰かさんと違ってね。そんなみっともない真似はしない」

 「それに」そう彼女が言いかける。その後は口にしなかったが、何を言いたいのか、簡単に予想がついた。

 彼、実力は確かだったもの。彼女の表情はそう物語っていた。

 僕は俯いて黙こくり、彼女のグラスに安ワインを注ぐ。石油由来のポリボトルはなんとも軽薄で、瑠璃のような重みはなく、その存在感は極めて不確かだった。

 残りを自分のグラスに入れ、再度、杯を上げる。

 「ままならぬ人生に乾杯」

 古い友情は色褪せるもの。月と地球のようにゆっくり確実に距離が開き、遠い幼少の日々は陽炎のような朧げさへと後退する。自我の成熟が両者の違いを否応無しに押し広げ、新しい交流は既存の関係性を薄めていく。

 その点、僕と葉子の関係に希少例と言えた。長い付き合いの中で彼女と僕の距離は近くなりも遠くなりもせず、冥王星とカロンのように一定の軌道を保っていた。

 僕達は不思議とウマがあったのだ。もしくは非常に微妙で感覚的なレベルでの感性の一致と言うべきか、相似する認識の周波数、それは時に不気味なまでの思考プロセスのシンクロニシティを招いた。

 憧憬を抱き続ける浪漫家であり、人生の求道者。共に地に足のつかない夢追い人。そして今、二人仲良く挫折しようとしていた。

 「ままならない運命などクソくらえ。」そう葉子は毒づき、一息にグラスを飲み干した。

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