死は器
ウナウナウーです。
まだ眠れないからついでに書こうかな。
ぼんやりしている。
最近呟きをみたあなた方によく聞かれる。
なにか病んでる?と心配されている。
病んでいるというよりかは、
決めた覚悟に身を震わせている状態です。
葬儀の職につく。
ずっと悩んでいた葬儀の仕事をしたいとまっすぐ考えて動き始めています。
娘にも出逢う前、
両親と父の故郷に旅行に行った。
昔から職人な父は家族の時間を殆ど取らず仕事ばかりで、
大人になってからちゃんとした旅行は初めて。
父は兄弟の中でも末っ子で、
兄弟は島に住んでいて何があってもすぐに行ける距離ではないと悟った父が自分ももう歳だから会いたいと言った旅行。
泊まった旅館で函館山の夜景を見ながら、
1人でお酒を呑み、
こんなに良い夜はねえなと呟く父の背中が小さく見えたのが忘れられない。
その日から心ばかり親孝行をしたいと思って、
家の手伝いや出来ることから始めて少しは良い娘に思われてるに違いないはず。
私も末っ子で、
直感としてこの先何度も死に触れる機会が多くなると思い興味深く感じた。
娘と出逢って、
人生のタイミングが合わず花嫁姿が見せれなかった私を1人にさせず死なせず守り抜いてくれた両親と家族がいて今日までも懸命に愛を育んでるに違いないはず。
こんなに愛してくれる人たちと過ごして、
愛する娘がそばにいて生の強みはいつだって手渡してもらえる。
でも、ひとり親の私は心弱くてすぐに挫折してしまうから死と隣り合わせに身を置きたいと強く思うようになった。
調べれば調べるほど、
宗教の違いや奥深さ、偲ぶ気持ちや遺されたがどういう過程で死と向き合って寄り添うのか、故人から学ばせて頂く生を受け止めるには、そんな事ばかり思い馳せた。
でも怖いと思ってしまう自分も強くて、
綺麗な死に方や身体だけではないから失礼な気持ちを向けてしまうのではと踏みとどまっていた。
自分の歩んできた人生の場数では、
送り出される側の故人も納得してもらえないとも思っていた。
そう思う日常が数年続いていく中で、
人の優しさや心遣いを知っていった。
親しい人が亡くなり深い悲しみを知った。
生きていることが素晴らしいとも思っている。
私は尽くしてしまう性格なので、
優しさを誤ってしまう事もあれば利用されたり裏切られる事も多い。
その度に許す、という事をしてきた。後悔はない。
どんだけ酷い事を言われてもその人がそれで消化するならそれが良い。
タイミングというものが人生には付きものだから、
他人のちょっとした憎悪を受け止めた所で器が大きくなるだけ、得をする事だと思う。
怒りや悲しさには優しさを添えるのが徳だと本気で思ってしまう。
私の人生も、
お世話になりすぎた父が倒れて今や入退院を前後しているので独りになる日も遠くない。
愛する人達には言葉で、行動で感謝を伝えているので何があってもそこに後悔はないと言い切れる。
ただ一緒にいる時間が無くなるという事に酷く恐怖を感じている。
愛が深い分、
誰より誰にも死に触れて欲しくない。
触れた後は優しく寄り添ってどこかでまた逢えるように祈っていたい。
身体という、器を通して故人の想いや思い出を汲み取って少しでも楽に祈っていたい。
汚れの仕事だと昔から言われがちで、
人生で一度きりしかないしきたりだから責任も重い。
失敗はそこそこでも許されない。
誰かがやる仕事、それはみんなそうで誇らしい。
私はやりたいと思った事をやらないで文句を言ったり、
遠ざけてしまいたくない。
しっかり自分の意思で向き合って、
やれるものはやるしやれないものは潔く諦めたい。
身体や心が経験した事なら芯から信じれるしブレない。
厳しい業界だと思ってるから覚悟を決めるのに少し時間がかかったなぁと思う。
常に死を隣において生きていたい。
私の大切な誰かが、あなたが亡くなった時に大きな優しさで見送りたい。
私が亡くなる時は、ひっそり誰かが思い出してくれたら良いな。
どうしてもやりたかった仕事、
今の環境をぜんぶ手放して覚悟をきめないと進まない歩みに怖くなって信じれなくて足を止めたくなる。
でも、きっと私の心に、生き方に最も必要な経験で、
突っ込んでいかねばいずれ自ら死を選んでしまう気がする。
こんな事言ってまだ合否決まってないんだよ、わらけてくるでしょ。
頑張ってみようと思います。
ウナは義理堅いと周りから言われる性格で、
自分でも本当にそう思ってしまうので
周りの愛する人、関わった人、これから出会う人の為に生きて与えられて与えていたいんだ。
人の為に尽くす事、使命である人間でいたいな。
追記
こんな偉そうな事ヌケヌケ言ってどうしよう。
面接落ちちゃったら凹むなぁー。
しばらく寡黙に自分磨いてこよう。
人を愛してやまない器になれますように。