「この世界は良いところ派」に隠された罠のこと
先日書いた「世界認識」の傾向に関する記事の追記として。
この世界をおおむね良いところと認識しているか、悪いところと認識しているかという思考の傾向が、個人の経験に関係なく、生まれ持ったレンズとして装着されている、という話だった。
このことを考える時に、セットとして考えたい罠があるのだけれど、それを書くと長くなり過ぎるので省いた部分を、ここに。
ざっくり言うと、世界認識が生まれつき決定しているのだとしたら、世界がろくでもないのは、お前の認識のせいだから、不満があるなら己の認識を変えやがれ、とか思ってしまう危険性のこと。
勿論、この世界には「実際に」ろくでもない事案が山ほど存在している。そして、それを「個人の認識を変えることで、受け入れよう」とか言っちゃうのは大変危険だし、ろくでもないことがろくでもないまま存在し続ける世界を容認することにもなる。
古典研究(Lerner, 1980)に、世界認識の一つとして、「世界は公平な場所である派(グッドプレイス)」と「不公平な場所である派(バッドプレイス)」の、そのどちらであるかが、その人の思考や行動に及ぼす影響を調べたものがある。
世界は公平・公正な場所だと信じるグループは、働き者である傾向にあり、頑張れば経済も世界も良くなると信じている。そして、他人に対して親切で優しい。
なぜなら、他人に意地悪をしたら、それがいずれ自分に戻って来ると考えているから。そして、人に優しくすれば、世界はそれ相応の良いことを自分にもたらすとも信じているから。
そして、世界は公平な場所だと信じているグループは、幸福度が高い傾向にもある。
単純に、公平な世界は不公平な世界よりも人間にとって良い世界だから、ということもある。そして、頑張りが報われると信じるのは、人の幸福度を上げる、ということもある。
けれど、そこには罠もある。世界は公平な場所だと信じている人は、成功していない人や、何らかの被害者を、そうなったのはその人の何かが問題だったからだ、と考える傾向にある、という。
つまり、この世界は公平な場所であるのだから、なにかが上手くいかないのは、その個人の責任であろう、と。
そんな場所に行ったからだ、そんなことをしたからだ、そんな服を着たからだ、など。本当は、どんな場所に行こうと、何をしようと、どんな格好をしていようと、それが被害に合うべき正当な理由であるはずがないのに。
成功に関して言えば、それはもう幾重にも存在する社会構造上の問題を無視して、個人の実力や頑張りにのみ理由を見出すのはお門違いだ。(そもそも何をもって成功とするか問題は置いといて。)
そして、世界グッドプレイス派のこのような思考が蔓延る世界は、誰にとっても良い世界であるとは言えないというパラドックスが生まれる。辛いよね
完結した自己の中で、世界をいかようにも変えることができる、というのは、とても心強いことでもあるし、外的ななにものも自分の世界を脅かすことはできない、という信念は時に必要でもある。
それと同時に、もし自分や誰かを傷つける外的ななにものかが存在しているのであれば、それを甘んじて受け入れ、己の中で処理していくしかない、と思わなくても良いのだ、と肝に銘じておくことも必要だ。
この二つは、相反するようであって、同じ盾の表裏に存在している。
Lerner, M.J. (1980). The belief in a just world. In: The Belief in a Just World. Perspectives in Social Psychology. Springer, Boston, MA. https://doi.org/10.1007/978-1-4899-0448-5_2