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一生のうちに覚えられる名前の数

人が一生のうちに覚えられる名前の数はあらかじめ決まっていて、その限界に達すると、古くて必要のないものを忘れて新しいものを入れていかなければ、全く新しい名前を覚えられないという仕組みになっているんじゃないか、と真剣に思うこの頃。

みなさんはいかがでしょう?新しい名前覚えられますか?

何を隠そうここ4年ほど新しく人の名前を覚えることができずに大変苦労している。とは言え、新しい友人や同僚の名前はさすがに覚えられる。私が全く覚えられなくなってしまったのは学生の名前だ。 

ただ、不思議なんだけど(そう不思議でもないけど)、その学生を教えている学期中だけはきっちり覚えていられる。ところが学期が終了してその学生と毎週顔を合わせることがなくなった途端に、どういうからくりか、チベットの砂曼荼羅すなまんだらのごとくきれいさっぱりさらさらさら~っと記憶の台から消えてしまうので、キャンパスのどこかでばったり声を掛けられた時に、「ドクターXX!」と相手は名前で呼んでくれているのに、「ヘーイ、ユー!」と完全に名前忘れてるやろ、あんた、みたいな中途半端な返しになってしまい、いつも微妙な空気が流れて困る。名前以外の細かなことは覚えているんだけどなぁ(どんなペーパーを書いたとか)。
諸行無常だよね。

新しい名前を覚えるために古い名前を忘れていくとは言っても、もう二度と会うことはないであろう友人や知人でも一度自分の人生に深くかかわった人の名前は頭の中で既に指定席を与えられていて、忘れることはないし、その席は永久に空くこともない。

本当に学生の名前に特化して記憶できないという一種のアレルギーみたいなこの状況(学生アレルギー?)、困ると言えば困るし、気まずい瞬間さえやり過ごせば特に困ることもないので、その分の労力を別のところで使おうと開き直ってもいる。学生たちには悪いけど。

大学では毎学期平均して60人程度の新しい学生を教えている。最近ではユニークな名前も増えているが、やはりクリスチャンネームの割合が多いので、似た名前が多発してそれが更に記憶への定着を妨げている。

時代によって人気の名前というのも存在していて、例えば少し前は恐ろしいほどアシュリーが多くて辟易した。(アシュリーB、アシュリーK、アシュリーW、という風に氏名の頭文字を付けて呼ぶのだが、顔や雰囲気も似てたりするともうアシュリーという集合体のイメージとなって存在する「アシュリーなるもの」と化してしまい、個人の影が薄れてしまう。)

今の大学へ来てから始まった学生の名前すぐに忘れる問題。
勤務先の大学は、良くも悪くもビジネスライクな風潮が強く、数名の仲の良い同僚を除いては、同僚同士でさえも結構ドライ、カリフォルニアの大地ほどに乾いた会話しかしないので、学生に至っては、実際この学生が一体なにをどんな風に思っているのか、どんなことで悩んでいるのか、そういう生身の人間としての実感のようなものを感じられることのないまま、学期が終わってしまうことが多いのも記憶に留まらない所以かもしれない。もちろん、中にはオフィスに来て、色々話しをする学生も一年に数名はいる。そして、そういう学生の名前は後々まで覚えていられる。

そんなわけで、また今年も新しい学生の名前を新たにインプットしなおす時期が来たなぁ、と税金の確定申告を準備する時のようにちょっとだけ憂鬱。そして前学期の学生の名前を試しに思い出してみようと頭の中を探れば、多くは既に手のひらに掬った水が指の間から滴り落ちるように消えてしまっており、どこにも見当たらず、特に印象に残った15人程度の名前しか思い出せなかった。諸行無常だね。 

ところで、記憶に定着できないとはいえ、私は、新学期が始まってから三度目の授業までにはクラス全員の顔と名前を一致させることができます。これってちょっとした特技だと思っているんだけど、この特技のせいで、学生から「自分のことをきちんと知ってくれる先生」という間違った印象を持たれているような気もする。完全なまやかしなんだけど。

そんな私の最近のテーマソングは、Bill WithersのLovely Dayという曲です(とても唐突だけど)。 

「朝起きて、朝陽が目を刺して、唐突に心配事が心に重くのしかかる時に、君の顔を見るとそれだけで世界は大丈夫になる、君を見ただけで今日はLovely Dayになる、と分かる。」という歌詞の乗った軽快なリズム。耳に入ってくると自然に心が500gくらい軽くなる。

これ、今日がLovely Dayになるかどうかは横にいる誰か頼り、というわけじゃなくて、光を反射する湖の水面、鉢植えの緑、空から降る雪、そういうものも含めて、そういう心に触れる美しいものを見るだけで、それだけで世界は大丈夫、今日はLovely Dayになると分かる、そんな心地よさはどこにでもある、ってことだと拡大解釈している。

顔面が蒼白になるようなできごともあるけれど、とはいえ今日はLovely Dayですね、と小さな心地よさをいずれどこかに探しながら生きていきたい。顔面蒼白のその日には無理だとしても。 

その拡大解釈の上でLovely Dayをテーマソングに、または毎日の入場ソングとして、忘れてしまった名前と、これから覚えなければいけない名前との狭間で、今日も錆びついたレバーを回すようにじりじりじりじりとゆっくりと少しずつ前に進んでいます。

さ、今学期もいっちょやりますか。