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弱い僕たちの小さな一歩 ―『ef - a tale of memories.』―

現在、エロゲー(ギャルゲー・美少女ゲーム)を原作としたアニメはほぼ消滅したといって良い。
なので今更なのかもしれないが、それが残したものを考えてみたい。

今回考えるのは、エロゲ原作でありながら、エロゲ的な想像力から逸脱した作品ー『ef - a tale of memories.』についてである。

自意識過剰なエロゲ的想像力

そもそも、いわゆる「エロゲ」的な想像力とはどういうものか。大雑把な議論になるので、例外は多分にあると思う。その点を了承して読んでいただきたい。

エロゲ的想像力とは、一言で言えば「自意識過剰」である。

エロゲでは一人の主人公に対して複数のヒロインが存在する。プレイヤーの主目的はトライ&エラーを繰り返しながらすべてのヒロインを攻略し、全キャラのTRUE ENDを見ることだ。
つまり、どのヒロインと付き合うか、付き合ったヒロインを喜ばせられるか、そのヒロインを悲劇から助けられるか、あるいは世界を救うことができるか―などなど、様々な展開がプレイヤーの選択肢次第で決まる。
エロゲはその構造上、「出来事の運命は自分の行動によって左右される」という自意識を孕んだものに陥りやすいのだ。(余談だが、この構造を逆手に取ったのが『AIR』である。)

また、物語の展開もポイントだ。概ね、序盤は様々なキャラクターが登場する群像劇で始まるが、ストーリーの分岐した後半になると選ばれたヒロインと主人公の一対一の物語になる。キャラクターによる会話劇より主人公のモノローグに力が中心になり、主人公の内面との葛藤に重きが置かれる傾向にある。

このような「自意識過剰」なエロゲは、思春期の若者や当時のオタクたちの内面とリンクしていた。その結果、エロゲは90年代後半から00年代前半のオタク文化の中心になった。

だが、この「自意識過剰」さは「彼女も世界も自分次第で変えることができる」という、全能感を含んでしまう。
あるいは、自分の行動により誰かを傷つけてしまうのでは―という内面の葛藤が全面に出た、ナイーブな物語になったりする。

このような物語ももちろん感動的で良いのだが、現実と対峙するには脆弱な想像力に思える。だが、2006年に発売された『ef - a fairy tale of the two.』及びそのアニメ化作品『ef - a tale of memories.』は、エロゲ的な想像力の限界を飛び越えた傑作だ。

私はゲームをプレイしていないのであくまでアニメ版を準拠とした論述になる。しかし、この作品に勇気をもらった1人として語らせていただきたい。

選択幅は狭い 〜擬似的な群像劇〜

まず、この作品には「ヒロインを選ぶ」という行為がない。男子3人(紘・京介・蓮治)と女子3人(みやこ・景・千尋)の登場人物がおり、それぞれがカップリングとなる。
そして、それぞれのカップリングの物語が同時進行で進む。また、全員の登場人物が関わり合うわけではないものの、「景と千尋は姉妹」「みやこと景が紘を巡って三角関係になる」など、カップリングの2人だけに留まらない(少し)複雑な人間関係になっている。

その結果、実際には3組のカップリングごとに話が進展しているにもかかわらず、観る感覚としては6人全員が複雑に絡み合って展開する群像劇のような錯覚に陥る(この感覚は実際に観てみないとわからないと思う)。

この時点で、エロゲ的な自意識過剰さはなくなっている。主人公に自由な選択肢が与えられているわけではなく、彼女となる相手はもう決まっているからだ。男性側には、決まったヒロインとどのように幸せを成就するかという選択肢しか残っていない。

だが、より重要なのは、選択する―というより行動するのが、男性側だけでなく女性側も含めた、6人全員であるということだ。

大きな決断ではなく、小さな一歩

もう少し詳しく物語を解説しよう。

『ef』では、主に女性側の3人がそれぞれ孤独感を抱えている(OP映像では鎖で表現される)。

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一方、男性側も不安を抱えており、それは物語中随所で登場する「進路希望調査票」によって表現される。モラトリアム期間のタイムリミットが迫ってきており、逃げていることと向き合って決断しなければならない時期に差し掛かっている。―そんな時期に男性側と女性側が出会うことで、膠着状態が動き出すという筋書きになっている。

物語の終盤、それぞれの登場人物はそれぞれが逃げようとしていたことと向き合い、それぞれに行動を起こす。それは一般的なエロゲ主人公が取るような大きな決断ではない。あくまで目の前の「やるべきこと」に向き合うという、小さな一歩である。しかしその小さな一歩を6人の登場人物全員が歩むことが、視聴者に対する大きなエールとなるのだ。

1人の主人公が大きな決断を持って行う行動は、感動はしても真似することは難しい。だが、決して強くはない6人のキャラクターがお互いにぶつかり合い、その結果執った行動は、前者以上に重い価値がある。何より、「自分もこのキャラたちに続くんだ!」という、観ている人の背中を後押しする作品になるのだ。

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『ef』の達成と現代アニメへの応用

これまで10年以上前の作品について考えてきたが、最後に『ef』の達成が現代のアニメにどう活かせるかを論じてみたい。

現在、アニメにおける主人公の価値はより高まっているように感じられる。
「主人公最強」な異世界転生モノや、炭治郎の綺麗すぎる心が眩しい『鬼滅の刃』、セカイ系を復権させた『天気の子』など、例は沢山出てくる。

だがそもそも、アニメとは元来自意識過剰なものだ。ロボットアニメは少年の成長願望の象徴として発展した。その少女版にあたる魔女っ子アニメも古から脈々と受け継がれている。

ただ、歴史に名を刻んだのはそのような欲望にまみれたジャンルの常識から逸脱した作品だ。『機動戦士ガンダム』や『美少女戦士セーラームーン』に代表されるそれらの作品は、アニメの持つ可能性を大きく広げてくれた。

改めて、『ef』の持つ可能性を考えてみる。この物語の魅力は、通常であれば主人公に幅広い選択肢を与えるエロゲ的な設定をあえて制限し、6人の登場人物全員に小さいながらも重要な決断をさせることで、より大きなエールに昇華させたことだった。

これはあくまで戯言なのだが、例えば異世界転生アニメなら、安易に主人公に全ての才能を集結させるのではなく、複数の登場人物の能力が集まってはじめて効果が発揮できるようにシステムを制限させる、などはどうか。確かに視聴者の願望充足としての力は弱まるかもしれないが、より大きな役割を担うことができるようになると思う。

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