お恥ずかしながら、現代アートがわかりません
ローマの大学院で美術史を学び始めて1ヶ月が経ちました。
生活にもまだ慣れず、英語の授業はついていくだけでも必死で目まぐるしい毎日です。
今日は私のアートの受け取り方について、少し思ったことがあったので、ノートにまとめてみます。
私のクラスメートは2~30人ほどで多くはありませんが、ものすごくインターナショナルです。
それだけでなく、バックグラウンドもひとりひとり異なり、個性豊かです。
美術史の修士とはいえ、歴史を学部でも勉強していた人ばかりではありません。
建築やデザインを修め、美術史が副専攻だったという人もたくさんいます。
話を聞いていると、半分以上の人が「私自身もアーティストなの」と言っていました。
そもそも日本語では「アーティスト」って言葉、なかなか使いませんよね。
「シンガーソングライターやってるよ」
「ダンサーとして働いてる」
「手芸が得意で制作活動中」
など、それぞれのフィールドで、なにかを生み出す『プレイヤー』が集まっていることがわかりました。
私の学部時代の専攻は西洋中世美術史だったので、作品を見て聖書を読んで史料を見つけることが「勉強」だと思っていました。
しかし、クラスメートと話す中で「自分のアートに活かすために視野を広げたい」と考える人がいることを知りました。
この記事のタイトルに、「現代アートがわかりません」と書いています。
実は私、現代アートというものがよくわからないのです。
適当にものを置いて適当に写真を撮ったのでは?と思ってしまうのです。
でも、クラスメートたちと授業の内容について話していて、考え方が少しだけ変わりました。
アートは、誰が何を切り取るか、誰に向けて伝えるかによって、作品の持つ意味が変わります。
現代アートでは、私たち受け取り手のバックグラウンドによって、作品の見え方は大きく変わります。
そして、それはそれでいいんだそうです。
大枠のメッセージはあったとしても、そこからどう作品と向き合うからある程度見る側に委ねられているという。
つまり、一つの作品をみて、全員が同じ感想を持たなくてもいいということですね。(もちろん、背景知識は大前提になりますが。)
「作品の意味」や「正解」を必要以上に探してしまうために、現代アートの解釈の自由さがかえって苦手だったんだな、と気づきました。
例えば、私がローマの街角で撮った写真は、日本人の私たちにとっては「おしゃれなヨーロッパの街」です。
でも、地元人からすれば、それはただの行政手続きのための事務所に過ぎないかもしれません。
文章も、歌も、絵も、なんでもそうです。
それから、私は写真を撮るときも、文章を書くときも、自分自身の視点をもう少しだけ大切にしようと思いました。
なにかを生み出すとき、なにかを目にするとき、「私の感性」はどう影響しているだろうか。
私にしか見えない世界があります。
アジア人の私だから、スペインに住んだことがある私だから、女性の私だから、28歳の私だから…
もちろん、私の視点も、ずっと同じなわけではありません。
始めてスペインについたときは、右側通行の車や電車に乗る犬がとても新鮮に感じられましたが、今は、それらは生活の一部に過ぎません。
「今の自分だから」見える世界があるんだと思いました。
完全に残すことは無理でも、せめて記録をしていこう。
今の私の目がこの街の何をとらえているか、後から思い出せるようにしよう。
そんな風に今は考えています。
アートは、発信する側と受け取る側の共同作業なのかもしれません。
この目でどう世界を見るか、自分の感覚に寄り添い、意識を向けてみようと思います。
私だけのこの感性が、前よりも愛しく、大切なものに感じる気がします。
現代アートは相変わらずわかりませんが、アートが少し近くなった気がしたので、ノートに書いてみました。
読んでくださって、ありがとうございました。