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新生月姫 1話

新しき月の世へ

「はぁ……」
聖界の一般居住区である月界。
その中心にある王城の一室で、ナギサは机で書類と向き合いつつも、肘をつき溜め息を吐いた。
「ナギサ。溜め息を吐くと、幸せが逃げるぞ」
「もうとっくに幸せなんて逃げてるけど?」
向かいの机で、同じく書類と向き合っているカスリにさらりと言われ、ナギサは機嫌を悪くしたまま言い放った。
そこにドアのノックが聞こえ、直後にリナが入ってきた。
「失礼します。ナギサ様、お仕事の方は……」
「出来てないわよ!」
「そんなに声を荒げなくてもいいではないですか」
思わず怒鳴られたリナだったが、真っ直ぐに主人であるナギサを見つめると、大きな溜め息を吐いた。
リナはそのままナギサの机に近付くと、彼女が散らかした書類を整理し始めた。
「ナギサ様。まだ、この生活には慣れませんか?」
「当たり前でしょ!?むしろ、私はなんで、あなた達が慣れてるのかって方が気になるわよ!だって私達……一か月前まで普通の高校生だったのよ?」

ナギサ。本名、ナギサ=ルシード。月王家第二王女。
一か月前まで普通の高校生だった彼女は、十歳より以前の記憶がなく、“海水エリミ”として教会に併設された孤児院で過ごした。
高校生になるタイミングで、親族だと名乗る男に引き取られ、東川家に迎えられた。そこの息子だったのが“東川里和”。現在、ナギサの向かいの机に座っている黒髪の男、カスリ=サガラである。
高校入学に伴い、新しく出来た友達が“浦川茂美”と“栗沢純恵”だった。二人もまた、リナ=リイガ、サーラ=メイルとして一緒にこちらに来たのだが。
新しく始まった交友関係は楽しく、帰りは寄り道をし、学校では一緒にはしゃいだりしながら、青春を満喫していた。
しかし、たまに見せる彼らのふとした表情はどこか、なくした記憶が戻りそうな感覚に陥った。
親族だと名乗ってやって来た男は、“東川記整”。カスリの実の父親、キセイ=サガラ。ナギサにとっても、実の伯父であった。とは言え、一緒に暮らしている間は詳しい話はもちろん、記憶をなくす前の話もされず、ただただ普通の高校生活を送っていたのだ。
それが変わったのは、ナギサが十六歳の誕生日を迎えた時だった。
突然蘇った記憶。そして、それを裏付けるように、今まで家族、友人だと思っていた人たちから跪かれ、本来自分たちが住む世界へと帰還した。

「……様。……ナギサ様?聞いておられますか?」
「え?あ、ごめん。何?」
もの思いにふけていたナギサは、リナの声で現実に戻された。
「……もうお時間ですので。外でサーラも待っています」
「え?……あ、そっか。今日は私のお披露目パーティーだったっけ?」
「忘れていたんですか?」
リナに溜め息を吐かれながら睨まれ、ナギサは「あはは」と乾いた笑いをしながら、逃げるように部屋を出た。扉の外では、タンポポ色の髪を風に揺らして満面の笑みを浮かべたサーラが立っていた。
「あ!ナギサ!準備できた?」
サーラは自分より身分が高い相手であるナギサに対して、フランクに接する。
高校生の時の癖が抜けないのもあるが、ナギサにとってもその対応はとても有り難く、安心して心を開けるものでもあった。
ナギサが「うん」と返事をするのを聞いて、「じゃあ、行こっか!」と、サーラは護衛としてナギサと歩き始めた。
その様子を見ながら、ナギサはふと口を開いた。
「……わざわざ悪いわね」
「そんなことないって!仕事ってのもあるけど、わたしはナギサと一緒にいれて嬉しいよ!」
サーラは満面の笑みを浮かべ、元気よく答えた。
その表情を眩しそうに見てから、ナギサは力ない笑みを零した。
「偉いわね。私には無理だわ。突然、生活が変わって……これが、本当の生活なんだって言われても、まだ心の整理ができないわ」
「ナギサ……。確かに、全然違う生活だもんね。しかも、ナギサの場合、記憶がなかった訳だし、仕方ないと思うよ。無理しないで?」
サーラはナギサの顔を、心配そうに覗き込んだ。
そんなサーラと目が合ったナギサは、ゆっくりと首を振ってから困ったように笑った。
「うん、ありがとう」
そう言って、そっとサーラの手を握ると、「行こう」と歩み始めた。

華美なドレスを身に纏ったナギサが、朗らかな笑みを浮かべるだけで、その場に花が咲いたようになるさまを、カスリは壁際からぼんやりと眺めていた。
ド派手ではないが、この場の主人公であることは明らかだった。
「ナギサちゃん、頑張ってるね」
カスリは横から突然声をかけられ、ちらりと視線を送る。
そこには、自分と同じ黒髪に、緑の瞳を持つ兄、クロスが、満面の笑みで立っていた。
「どうだろうな。まだ、感情が追い付かないって感じで荒れてるけど」
カスリの返事に、クロスは苦笑いを零した。
「それはそうだろう。まだ帰って来て一か月ぐらいだろう?まして、ナギサちゃんは記憶も戻ったばかりだし、そもそも記憶を消されたのも……」
そこまで言ってクロスは口を噤んだ。
記憶を消すほどの悲しい過去は、思い出さなくてもいいと言いたいが、王族としては望んではいけないのだろう。
クロスはふと一息吐いてから、話を続けた。
「でも、それを支えるのも、婚約者であるお前の役目なんじゃないのかな?」
クロスの問いかけに、カスリはふと床を見つめた。
「……それはそれで、俺の気持ちの整理ができてないんだけどな」
「カスリ。ぼく達、月聖家は、月王家の分家であり、お互いの婚約は代々決められたことだよ。月王家があっての月聖家。確かに、結婚云々は気持ちの問題だし、ぼくは一端置いといてもいいと思うけど……ただ、月王家を支えていくのだけは忘れないで」
クロスはそう微笑みながら言うと、ぽんっとカスリの肩を叩いた後、賑やかなパーティーの中心へと向かっていく。自分の婚約者、ナギサの姉、月王家第一王女であるフウ=ルシードの元へ。
カスリはその姿を見送りながら、この場ではダメだと思いつつも、思わずため息を零してしまった。

ナギサはパーティー会場の真ん中で、多くの人たちと談笑をしていた。
一か月前までただの女子高生だったナギサだが、記憶を取り戻し、尚且つ手厳しい姉の指導もあり、その所作は美しく、全く非がない。
パーティーに参加している多くの人々から賞賛を受ける彼女は、王女としてはもちろん、次期月王として申し分なかった。

一方、その様子を一人の女性が見つめていた。
ナギサと同じように、多くの人々に囲まれ、その中心で華やかに笑う。
が、彼女の元に向かってくる一人の男性を見つけ、その笑顔は更に咲き誇った。
「ごめんなさい、少し失礼するわ」
そう言うとさっと中心から逃れ、そのまま男性の元へピタリと寄り添った。
「クロス!今日の格好も素敵ね!」
「ありがとう、フウ」
人目も憚らず、ぎゅっとハグしつつ、フウはそのままクロスの腕へとしがみ付く。
とは言え、この二人のイチャイチャは通常運転なので、周りは何も言わないし、「今日も仲睦まじいわね」とかほっこりした目で見つめられている。
「そう言えば、カスリと話してたみたいだけど、大丈夫だった?こんな大きなパーティー初めてでしょう?彼も、ナギサの婚約者として、こっち側にいてほしいのだけど?」
「あー、うーん、まだ慣れないみたい。それに比べてナギサちゃんは凄いね。カスリと違って記憶もなくなっていたというのに、あの完璧さで既に魅了してるんだから」
「ふふんっ、当然よ!わたくしが叩き上げたんですもの。で、もっ!」
フウは高圧的な笑みを浮かべていたが、すぐにムッとしながらクロスの頬をぎゅっと挟んだ。
「クロスもナギサを見るって言うなら話は別!あなたはわたくしだけを見て!」
「お、落ち着いて、フウ。そもそも、ナギサちゃんは妹みたいなものだし」
そう困ったように笑いつつ、フウを宥めるクロスだが、フウは「そりゃあ、わたくしの方がスタイルは良いと思うけど……あの子は、年相応の愛らしさがあるわよね。我が妹ながら、羨ましい!」とヒートアップしていた。

そんな二人の様子を、ナギサは多くの人々に囲まれつつ、眺めていた。
姉、フウと、その婚約者のクロスの仲睦まじい姿を見た後、壁の方でぽつんと立っているカスリを見た。思わずため息が出そうになるのを我慢したが、隣にいたサーラはその視線に気付いたようで、じとっとカスリを見た。
「あいつ、何してんの?ナギサの婚約者でしょ?こっちに来てエスコートぐらいしなよ!」
サーラは、ナギサの代わりと言わんばかりに悪態を吐く。
「落ち着いて、サーラ」と、やんわり止めるナギサ。
サーラはナギサの専属護衛とは言え、立場は軍人なので、一応王族であるカスリの悪態を吐くなどあってはならない。同じように高校生をしていたため、身内みたいなものだが、他人に聞かれたら大事になりかねないので、ナギサは慌てて止めた。
サーラも最低限は弁えているので、すぐに口を噤む。
「でも、ありがとうね、サーラ」
ナギサがふと微笑むと、サーラはすぐに満面の笑みを浮かべた。
「任せて!ナギサの心だって守るんだから!」
そう意気揚々と答えた。

お披露目も終わる頃、会場に突然やって来た人物に周りは一瞬びくりと震えると、慌てて膝をついた。
ナギサも慌てて頭を垂れたが、入って来た女性はナギサの前で止まると口を開いた。
「ナギサ、気にしなくていいわ。顔を上げなさい」
そう言われ、ナギサはゆっくり顔を上げると、彼女を見た。
綺麗な長い黒髪をハーフアップにした女性は、穏やかな笑みを浮かべた。
「やっと、皆にあなたが次期月王であり、次期大神なのだと紹介できるわね。ずっと、心待ちにしていたわ」
「大神様からのお言葉、とても嬉しく思います」
ナギサは綺麗な礼をする。
突然入って来た彼女こそ、この聖界を守護する存在、大神・ルゥ=ルシードである。
本来、神界にいる大神だが、次期大神であるナギサを自ら祝おうと、わざわざ一般居住区である月界に降りてきたようだ。
「こちらに戻って来て日が浅いのに、完璧な所作はさすがですね。次期月王として楽しみだわ」
その言葉に、ナギサは一瞬表情を硬くする。
「あ、ありがとうございます。お母様やお姉様はもちろん、周りも良くしてくださるおかげで、こちらの生活にも慣れてきました」
「そうですか。これからも人前に出る機会は大いにあります。精進を忘れず、成長なさい」
「は、はい」
ナギサの硬い返事にも気付かないのか、彼女はそのまま会場を一瞥すると、来た時と同様に威厳を振り撒きながらその場を後にした。
「はあ……き、緊張した」
思わず胸を押さえたナギサの元に、フウが駆け寄った。
「ナギサ。大丈夫かしら?」
その言葉に、ナギサは思わず頷くことしかできなかったが、フウは大神が去って行った方を見ながら思わず呟いた。
「しかし、本当にとんでもない威圧よね。わざわざ挨拶にいらっしゃるとか……あの方、ずっと神界から出ないのかと思ってたわ」
「ちょっと、フウ。言いすぎだよ」
慌てて止めるクロスに、フウはふんっと腕を組む。
「まあいいわ。興醒めしたから、もう少し飲むわ!」
そう言うと、やっと賑やかさと取り戻した会場の真ん中まで行き、「せっかくだから、もう少し楽しい時間を過ごしましょう」と周りをもてなし始めた。
そのフウの姿に、ほっと一息吐くと、ナギサも「何かほっとしたらお腹空いちゃった」と呟き、その輪に入って行く。
クロスはそんな二人の姿に苦笑いを零すと、ずっとナギサの側で警護に当たってくれていたサーラに声をかけた。
「ぼくは、二人のところに行くけど……弟のことを頼んでもいいかな?きみは、向こうの世界でも弟と付き合いがあったんだよね?」
「はい。向こうにいた間、キセイ様のお世話になっておりましたので」
「じゃあ、話早いね。一切、ナギサちゃんの傍に行かないダメな弟を頼むね。何なら引っ叩いてくれてもいいし」
さらっと恐ろしいことを笑顔で言うと、クロスもそのままフウとナギサの元へと行った。
残されたサーラは、「……まあ、クロス様に言われなくても、お説教確定だけどね!」とぼやくと、勢いよくカスリへと突っ込んで行った。

「マジで!あいつら、怖かったんだからな!」
カスリはナギサと向き合いながらお茶をしていたが、ガシャンとコーヒーカップを置きながらナギサに訴えた。
昨日のお披露目パーティーの際に、ナギサのエスコートを何故ちゃんとしないのかと、サーラはもちろん、ナギサの側近であるリナにまで責められたようで、それをナギサ本人にぶつけていた。
ナギサはむっとした表情をしながら紅茶を啜ると、丁寧な仕草でカップを置き、ふと息を吐いた。
「……自業自得だと思うけど?確かに、私が主役ではあっただろうけど……そもそも、カスリだって帰還してきた側なのだから、あなたのお披露目っていう意味もあったんじゃないの?」
ナギサの正論に、カスリもウッと声を詰まらせると、「それはそうかもしれないけど……」ともごもごと口籠る。
その姿にナギサは溜め息を吐きそうになるのを我慢すると、彼の後ろに視線を向けた。
「カースーリー?あんた、説教の意味わかってるの!?」
「なっ!?サーラ!リナ!いつの間に!?」
「私たちの気配に気付かないとは……嘆かわしいですね」
後ろから忍び寄ってきたサーラに怒鳴られ、リナには冷たい視線を向けられる。
女子二人から非難を浴び、本来なら二人より身分が高いカスリが、たじたじと情けない姿をしているのを見ながら、ナギサは「ほんとに、これで大丈夫なのかしら?」とぼやきながら、再び紅茶へと口を付けた。

このお披露目パーティー以降、月王家第二王女の帰還の話が聖界中はもちろん、いや世界中で持ちきりになった。
そして、人々は同時に、過去にあった事件を思い出す。
ナギサもこの日を境に、本格的に王女として公務に就いた。
さらに、彼女の帰還により、新たな勢力が動き始める。
これが運命の始まりだということは、ナギサ本人さえ知る由もない。

それでも祈ろう。彼女が進む道に光あれ、と。

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