記憶を覚えて、思い出を憶えて。
素晴らしい。
「思い出」と「記憶」の定義にもう一方の単語をそれぞれ使用しているところに美しさすら感じる。
思い出は全部記憶している。
記憶は全部は思い出せない。
うん、美しい。
重要なのは、自身が体験/経験したことを必ずしも全て把握している必要はないということ。
むしろ、そうやって把握しようとすることを人は「記憶」と呼ぶ。学校の勉強を思い浮かべるとイメージしやすいが、かなり作業に近い。
必死に脳に詰め込んで、ある事象を忘れないようにすることを「記憶」と呼ぶようだ。
「思い出」はそうした必要性からわれわれを解放してくれる。
例え忘れていても構わない。
それをふと認識した時に「記憶」は「思い出」に変わる。
「記憶」は忘れてしまうと「記憶」ではなくなる(大学時代に頑張って"記憶"した英語もドイツ語も離脱してしまったな)。
「思い出」は忘れていてもいつでも「思い出」になり得る。しかも、一度定着すると往々にして消えない。
"忘れていてもOK"という観点から考えると、「記憶」と「思い出」には見えない主従関係のようなものがあるかもしれない。
裏を返そう。
"忘れられない"という点で、「思い出」は「記憶」に勝つことができない。
何も、「思い出」には良いものばかりではないからである。
清濁併せて「思い出」。
忘れられない美しい「記憶」を「思い出」と呼び、忘れられない醜い「思い出」を「トラウマ」と呼ぶ。
歳を重ねていって気づいたことがある。
生きれば生きるほどに「思い出」が堆積する。
何も忘れることができず、ずるずると荷物を引きずったまま生きていかなければならない。
この運搬形態はまさしく雪だるま式であり、荷物はどんどんと嵩を増し、重くなる。
「記憶」と「思い出」はこんなにも似通っている(ように見える)のに、それらをもう一方に変換する技術が脳には備わっていない。
われわれは事象を「記憶」と「思い出」の二択で振り分ける作業を強制されている。
そしてそれらは常につきまとう。
たとえ意識的に把握していなかったとしても、身体と経験から逃れることはできず、何気ないトリガーによって急に回帰することも往々にしてある。
こうやってまたフロイトの方向に収束していくんだよ、まったく。
「記憶」の「憶」は「おぼえる」という単語だが、一般的に使われるのは「覚」の方だなと、この文章を書きながら思っていた。
りっしんべんが付いているんだから、
「憶」は「思い出」の方に使ってあげたい。
「記憶」には「覚」を贈ろう。
知覚、感覚、錯覚…。
どれも理性的な把握行為に関する熟語だし、
キミにピッタリだと思う。
こころでおぼえるのが「思い出」
あたまでおぼえるのが「記憶」
どうですか、森博嗣さん。
なかなかいい線いっていると思いますけど。