【幸福ってなんだっけ】享楽、快楽、祈りなき祈り、傷を抱擁すること
平素はお世話になっております。
いつもは感傷的なことを滔々とそれっぽく語っている人間なのですが、今回は普段書いているような文章とは少し異なった毛色の内容を書き綴ってみようと思います。
テーマは「幸福」です。おやおや、スピリチュアルなことを語り出すのか、と身構えた方へ。ご安心ください。あながち間違ってはおりませんので。
幸福
いきなりですが、幸福とは、なんでしょうか。
お金持ちになること、好きな人と結ばれること、美味しいものを食べられること、等々。
こんなところですかね。要は世間一般で「満たされている」とされている状態です。
しかし、本質を考えてみると、お金を持っていることや好きなものを手に入れている状態を「幸福である」と見なすと、いささか拝金主義的な下品な世界が訪れている気がします。
すると、「幸福」とはつまりこのような状態を指しているのではないでしょうか。
苦痛のない状態
これな気がします。
自分の求めるものが手に入っている状態。そして、それらが他人に奪われない状態。
幸福になりたい、という欲求は誰にでもあるとは思いますが、そのときの「幸福」とはどんな状態かと聞かれるとイマイチ具体的に説明することができない。
その理由は、「不幸ではない」という否定を伴った裏返しの状態を欲しているからなのではないでしょうか。
そもそも、お金がなくても幸福な人は沢山います。余命いくばくもない病人であっても今を幸せと思う権利はある。
やはり、「幸福」とは何かを所持している状態を指す言葉ではなく、何かを奪われない自己充足的な状態なのだと思います。
快楽
他方、「快楽」という言葉もあります。何かを所持することの幸せは寧ろこちらに寄っているのではないかというのが持論です。
「快楽」とはすなわち、瞬間的な気持ちの充足です。「酒、タバコ、女」といったザ・昭和なオトコの趣味に挙げられるように、ひと時の気持ちよさを「快楽」であると考えます。
先に述べた「美味しいものを食べられる」は継続的な状態なので「幸福」なのですが、「美味しいものを食べている」という瞬間的な幸せは「快楽」にあたります。だんだんと棲み分けがはっきりしてきましたでしょうか。
澁澤龍彦さんも『快楽主義の哲学』で語っているように、苦しみを回避する幸福よりも能動的に快楽を獲得しようとするスタンスを人間の主軸とした方が、幾分われわれの生はダイナミックになっていく気がします。
享楽
はたまた、「享楽」という言葉もあります。
じゃあこれは何でしょうか。
こちらは一般的には「快楽にふけっている状態」と定義されています。
ここでは「享楽」というものを学術的な観点から見てみようと思います。
大元の定義から探っていきましょう。
フロイトは人間を行動へと駆り立てる本質的な衝動のことを「欲動」と呼び、自己保存の「性の欲動(エロス)」と「死の欲動(タナトス)」に二分しました。
この欲動が満足している状態を「享楽」と言い表したのがラカンです。
ラカン曰く、欲動というものは常に不足を生み出すものであり、完全な満足(享楽)を求めて、人は自らの欲動を駆り立てていくといいます。
享楽はその性質から、人が活動をやめた瞬間、つまり死を経験するまで止まることはありません。そのため、欲動の本質は「死の欲動(タナトス)」であると考えることも可能です。
ラカンとしては、「享楽」はすなわち「不可能」と捉えているのかもしれません。
達成されることのない目標を欲して、人間は想像/創造を続けているのでしょう。
ラカンの享楽概念を現代的に再解釈したのが千葉雅也さんだと思います。
彼は『勉強の哲学』にて、苦しいことと自覚しつつも、それを継続するという享楽的なプロセスを人間の活動能力の軸とする哲学を展開しました。
千葉さんのこの思想は現代において最重要と言っても過言ではないと私は考えております。
現代において、継続することは生きていくことと切っては切り離せない関係だからです。
どんなに願っても、私たちは働くことをやめてはご飯を食べていけない。
それならば、その労働というものを苦しみながらも楽しむ、マゾヒスティックな享楽の精神を据えて向き合っていった方が人生は豊かになる。そんな気がします。
享楽的な祈りを
思うに、幸福を目指しても、快楽を目指しても、その先に待ち受けているのは絶望ではないでしょうか。
なぜなら、それらには明確なゴールが用意されているからです。苦痛が一切排除されてしまった凪の状態(幸福)も、瞬間的な気持ちよさだけに浸る状態(快楽)も、長期的に見れば人間の発展を止めてしまいます。正直なところ、どちらも現実逃避に他ならないのです。"ここにはない"気持ちのいい状態を目指して、今いる場所から離れようとしている。
しかし、それでは今の苦しみはどうすれば?この問いに対する回答が用意されていないのです。これでは困ります。我々はこれからも生きていかなければならないのですから。
それならば、享楽的に現実を受け止めることを目指してみるのも悪くはない気がしてきませんか。
いつか来る楽しみを求め続ける、当てのない祈りは宗教的だと思っています。宗教を悪く言っているわけではありませんので、そこはご了承を。あくまで、擬似宗教を非宗教的に信仰するその状態が不健康なのではないか、という問いかけです。
そんな不確定な祈りはせず、「今の苦しみがどうか楽しくなりますように」と自分自身に祈る方が実用的だと思います。ただし、飽くなき満足を求める旅となりますので、お付き合いの仕方には要注意…。
傷 ※ここだけ読んでもOKです
ここまでの話は、要するに、「現実をどう受け止めるか」に繋がってきます。これを語りたいがための論述ですので、上記は正直なところすっ飛ばしてしまっても問題ありません。
今がしんどい、大変だという声は自身の周りでも良く耳にします。でも、私にとってそれらは"いつか来る救い"を待っている状態にしか見えません。その苦しさに対処することもせず、ただただ外的な変化を求めたところで、現実は何も変わらない。
苦しみは抑圧して目を逸らしても、ずっとそこに在り続けます。大切なのは、目を逸らすことではなく、逆にそれを眼差し続けること、享楽的に傷を愛することなのではないでしょうか。
ネックなのが「救済」という概念です。これがあるから私たちは"いつか救われる"という考えが頭にこびりついて離れない。
これはとてもニヒリスティックなものの見方なのですが、社会的/経済的な活動において救済など存在しないと私は考えています。
個々人が主体的に何かを変えた結果として訪れているのが救済なのであり、それは個別に存在する成功体験に他ならない。上手くいった結果だけを切り取って、いつか自分にもそれが到来すると手放しで待ち続けるのは絶望的です。
でも、誰もが優れた結果を出せるわけでもないし、そもそも差がつくように設定されているのが今のシステムですし。
高望みはせず、今の自分の状況を如何におもしろおかしく過ごしていくかに専念しましょう。