雪虫
これは「noteで小説オムニバス Advent Calendar 2020」というアドベントカレンダー企画に参加するために書いた小説のような気がします。
12月9日追記
有料noteに変更しました。
「投げ銭note」になります。
「智恵子は東京に空が無いといふ」と高村光太郎の「智恵子抄」にあるが、千鶴子は「東京に冬が無い」と言う。12月に入ってからは最高気温が10度ぐらいにしかならない日だってある。でも千鶴子は「まだ冬が来ていない」と言う。
ある日僕は千鶴子に尋ねた。
「どうなったら冬が来るの?」
「冬が来ると雪虫が飛ぶの。」
「雪虫?」
「白い綿毛が付いた小さな虫。」
「それが飛ぶと冬になる?」
「雪虫が飛んで、そのあと雪が降るの。そうしたら冬なの。」
病室の千鶴子が眠るベッド脇の丸椅子に腰かけながら、数年前のそんなたわいのない会話を思い出していた。
いつの間にか目を覚ましていた千鶴子が話しかけてきた。
「サンタさんにお願いするプレゼントは決めた?」
そういえばもうじきクリスマスだったんだな。千鶴子の急な入院や余命宣告で、そんな悠長なことを考えている余裕などなかったし。とっくに大人になっている千鶴子がサンタクロースからのプレゼントなんて、不思議なことを言い出すものだ。考えてみたら千鶴子と結婚してから、小さいケーキを買って二人で食べるぐらいで、ツリーもプレゼントもないクリスマスを過ごしていた。一度ぐらいもっと華やかなクリスマスでもやってあげられればよかったけれど。残念ながら千鶴子にはもう、そのための時間が残されていないのだ。
「来るかな?サンタさん。」
「きっと来るわ。」
「君は何を頼んだの?」
「本物の冬。」
クリスマスイブの夜、千鶴子は臨終の床にあった。もう長くはないのはわかっていたが、それでもやはり奇跡を祈ってしまう。本当にサンタクロースがいるのならば、千鶴子の病気を治して欲しい。他には何にもいらないのになと思いながら、今の自分にできることは、ただただ千鶴子の痩せた冷たい手を握っていることだけだった。
千鶴子はそれまで半眼になっていた目を大きく見開いて、言葉にならない言葉をつぶやき、大きく息を吸って二度とその息を吐くことはなかった。
主治医の「ご臨終です」という言葉だけが病室に響いた。看護師が作業に取り掛かるのをぼんやりと眺めながら、病院の外へ出た。
星のない薄明るい東京の空。吐く息が白い。
「東京だって冬はこんなに寒いんだよ、千鶴子。」
そう心の中でつぶやいた。
さっき千鶴子は何を言おうとしたんだろう。「ゆき」と言ったようにも聞こえたけれど。その時、僕の目の前をゆっくりと白い雪のようなものが横切った。雪にしては変な降り方だ。その雪のようなものにそっと手を伸ばす。僕の手のひらの中に入ったそれは、とても小さな虫だった。白い綿毛のようなものが付いた羽虫。それは僕の手のひらから夜空へ向けてふわりと浮き上がった。その時、僕の頭の中で千鶴子の声がした。
「雪虫が飛んで、そのあと雪が降るの。そうしたら冬なの。」
雪虫が空に吸い込まれていくのと入れ替わりに、雪が音もなく空から降りてきた。
千鶴子、雪だよ。東京にも冬が来たよ。
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