厨房の芸術家たち:『Artiste』の感想文
さもえど太郎『Artiste』の9巻を読んだ。おもしろかった!
読み終えてふと、そういえば、この作品にはいろんな芸術家が出てくるけど、孤独な芸術家、みたいな存在がぜんぜん出てこないな、と思った。
物語の中心人物である料理人・ジルベールが働く「厨房」でも、彼をはじめ、さまざまな芸術家が生活する「アパルトマン」でも、芸術家たちはあたりまえのように交流しあい、刺激を与えあっている。
この芸術を集団の営みとして捉える感じは、作中ではほとんど前提のようになってるけど、そこにこの作品を読み解くヒントがある気がするので、ちょっとそこを解きほぐしていきたい。
決定的に重要なのは、物語の中心人物であるジルベールが料理人であることだ。料理が芸術として捉えられていることとあわせ、この作品の特徴的なポイント。その理由は明確ではないが、ヒントになるのは、2巻のこのセリフだ。
これは、ジルベールが住むアパルトマンの大家・カトリーヌのセリフ。
このセリフを素直に受け止ってみる。もし人がパンと水だけで生きていけたら、芸術家としての料理人は不要だろう。多様な味が不要だからだ。
しかし、実際は人にはそれぞれ異なる味覚があるから、さまざまな料理があっていいし、料理人がいてもいい。
こう考えると、ここでいう料理と料理人は、それぞれ「芸術」と「芸術家」に置き換えてもよさそうだ。
人間の味覚はさまざまだから、パンと水だけでは満足せず、少しでも自分にとっての「よい味」を求める。それだからこそ、芸術としての料理がありえる。料理人が物語の中心にいる背景には、そういうことが考えられそうだ。
作中での料理と芸術の関係を考えたうえで、集団として描かれる芸術家のあり方についても考えてみよう。
参考になるのは、ジルベールが働く厨房のあり方だ。ジルベールには、味覚と嗅覚が優れているという特徴があるが、それはあまり押し出されず、仲間たちとの「チームプレイ」が中心になる。そのチームには、食材の生産者たちを含めてもいいかもしれない。とにかく、集団で行うものとして料理が描かれている。
目的は「より多様で、よりよい味を提供すること」だろうか。それは一人では難しいことなのかもしれない。
わたしの考えでは、この厨房での協働のあり方が、作中の芸術家同士の協働のあり方のモデルになっている。料理が芸術のモデルだったように。
『Artiste』という作品は、料理人の物語でありつつ、芸術家全般の物語にもなっていて、その構造を支えているのは、ジルベールをはじめ、さまざまな芸術家が生活するアパルトマンの存在だ。
こんなイメージが浮かぶ。アパルトマンがひとつの厨房だとしたら? そこで芸術家たちは、互いにジャンルを超えて協働しながら、パンと水だけでは生きていけないわたしたちに向けて、「より多様で、よりよい味」を作品というかたちで日々提供してくれているのだとしたら……。
たぶん、料理人であれなんであれ、芸術家は、自分独自の作品を作り上げるのとはべつの次元で、世界を少しでも彩り豊かな場所にするという役割があり、そういう認識が『Artiste』では先にあるからこそ、芸術家同士の協働が成立するのだと思う。
世界が、いろんな料理で、作品であふれる。うつくしい花畑のように。
そうはいっても、この作品ではたとえば、ジルベールの高級店とチェーン店の対立とかが描かれたりすることはないから、現代における芸術の「難しさ」みたいなのはあまり描かれない。そういうところで「内輪向けに過ぎない」というような指摘を加えることは可能だとは思う。
ただ、『Artiste』の魅力が、「芸術は人に届くものだ」というあっけらかんとした「信」の力強さにあるのもたしかだ。
作中でカトリーヌは、引用したセリフの前にこんなことをいっていた。
さまざま芸術家たちの物語をつづる作者のまなざしには、アパルトマンの大家・カトリーヌのそれを思わせるところがあって、そのトーンが、作品世界にひとつの彩りを与えているような気がするのだ。