『無職本』から「新宝島」へ
『無職本』という本を読んだ。ブックオフで見かけ、惹かれて手に取ってみた。内容は、いろんな人が自分の無職の期間を振り返って、それにポジティブな意味を与えていく、という感じだ。
本はそこまで響かなかったけど、わたしの無職期間も一年を超え、そろそろ終わるのではないかという根拠なき予感がしはじめているので、ここらへんで無職についていま思うことをまとめてみる気になった。
無職についての一般的な印象。
社会的になにもせず、いろいろなものに背を向けて、部屋なり家なり慣れ親しんだ環境に引きこもっている……。
わたしが自分の経験も踏まえ、強く思うのは、無職になるというのは、「芸術家」になることだということ。もっとひらたくいうなら、「つくる人」に。
そのとき、自分の部屋なり家なりは、社会からの逃避の象徴ではなく、いろいろなものから距離を取って落ち着きを取り戻し、そこからなにかが生まれていくような、ポジティブな場所になる。「アトリエ」と呼びたくなるような。
それでは、「つくる人」はなにを作るのか。芸術作品に限らない。広く捉えてみる。衣食住に関すること。その日その日のスケジュール。自分のコンディション。自分の気分をよくするすべてのこと。
これらはだれもがみな、多かれ少なかれやっていることだけど、無職の人間は、それをだれのためでもなく自分のためにする割合が大きくなる。それに従って、仕事ではない芸術的な活動の割合が増大する。
いつまでも無職を続ける気がないのであれば、次に自分がなにをどこでするのか構想することも制作の一種だ。それは漫画家が次回作を練るようなものではないかと思う。その際、週刊連載的な「〆切」の感覚をもっていないと、キリのない探求の沼にハマってしまうのだけど……。
無職というと、将来に対する漠然とした不安とか、無職でいることの不安といった言葉がすぐに結びつけられる。けれど、それは無職がなにもしていないということを前提にしすぎている気がする。無職はなにかをつくっている。お金にならなくても。その実践をべつの仕方で肯定すること。
自分にぼんやりとした不安がまったくないわけではないけど、いまは「次回作」(=次のアクション)を完成させられるだろうか、という個別的な不安しか意識することはない。
なにかをつくる意識をもてば、将来に対する漠然とした不安ではなく、個別の問題に対する具体的な不安になる。究極的にいえば、不安を細分化できるというだけで、無職がなにかをつくる理由になると思う。
最後に自分の場合を振り返る。
無職の身で実家にい続けることを「停滞」とみなす気持ちがどこかにあったけど、いまは一人の芸術家として、自分の実践や(相対的に安定した)アトリエとしての生活空間を肯定したい。そうできてはじめて、フラットな気持ちで次回作の完成にもてる熱量を注げるような気がしている。
そんなことを考える。6月14日。
脳内では、サカナクションの「新宝島」が流れている。この実践は、自分をどんな場所に連れて行ってくれるのだろうか。