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京都、オルタナティブ(20220626)

 約一年半ぶりに、京都を訪れた。時間が経って、学生から無職に肩書きを変えたにもかかわらず、町は変わらずそこにあり、その町で過ごす自分の心境やスタイルも、暮らしていた当時とほとんど変わらない。観光客は目に見えて少ないけれど、なんとなくいつもより透き通ってみえる鴨川は、静かにかつたっぷりとした穏やかさで変わらず流れているし、遠くに見える山容や、盆地特有の暑さもそのままだ。

 自分は、というと、ホテルに泊まってはいるものの、喫茶店でモーニングを食べつつ本を読んだり、鴨川を歩いたり、行きつけの書店をめぐって本を買ったりトークイベントに参加したり、鴨川に戻ってきてチューハイを飲んだり……。観光客の気分はなく、くだけた時間を過ごしている。あとは髪を切ってカラオケに行きたい。

 それでは、かつてとほんとうになにも変わっていないのだろうか。そんなことはない。町としての京都も、そこで時間を過ごす自分のスタイルもあまり変わってはいないけれど、この一年半、すこしばかりの「経験」を積んで、考えることや思考のスタイルは変わったような気がする。この場所で思い描いていたような社会生活はあっけなく終わり、一から自分の今後を手づくりしていかないといけないような状況がある。かつての自分とはちがう「オルタナティブな自分」を想像しなければいけない。

 かつての自分としてではなく、あたらしい「経験」をたずさえた自分として、オルタナティブな未来を想像する。

 思うに、京都はそんなことを考えるのに向いた町だ。町も、町の地形も、そこでの生活習慣もよくいえば安定的、わるくいえば閉鎖的で変わらないからこそ、日々変化しつづける自分の思考に注意を向けられる。川の流れそのものではなく、川の透明度に注意が向くように。これは京都に限らず、地方の地元だってそうかもしれないけれど、一人になれるのはここだけなのだ。非社会的に、社会を考えられる場所。自分にとって、オルタナティブに思考できて、オルタナティブに思考する力をもらえる場所。そういう「場所」はきっとだれにでもあるような気がする。

 京都再訪。そこで過ごす生活スタイルの方はあまり変わっていないつもりだったけれど、すこしちがうところもあって、たとえばかつては移動手段として自転車があったけれど、いまはない。しかし、足がある。かつてはアパートがあったけれど、いまはホテルしかない。しかし、ホテルなら場所を好きに選べる。それでみえる景色もある。そんなふうに、自分が京都を楽しんで過ごす「オルタナティブな仕方」も発見できたような気がする。時間が経って、自分の考えも、対象との向き合い方も変わって……。そうすることでしかみえないものがある。生きることはオルタナティブな価値をたえず発見していくことなのだろうか。うまい言葉が見つからないので、ここらへんでやめとこう。

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