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東京にて(20220624)

 東京にきて、最初の夜。何日も予定されているわけじゃないけど、こうして文章を書きはじめる。東京には一年半ぶりぐらいにきたけど、人の多さにびっくりした。とくに駅構内。行き交う人々の流れを縫うようにして歩くのに慣れない。疲れる。これは、地方だと車による交通渋滞をくぐり抜けるときに近い。都市の道では人が車になり、地方の道では車が人になるのだなあ……。そんなことを思った。あと気になったのは、梅雨明け間近の暑さなのに、外でもマスクをしている人が多いこと。そんな中、ジョギング用のウェアを着て、運動中なんですよ、というていでマスクをせずに高層ビルの下を風に吹かれて歩くのは気持ちよかった。

 今日は皇居の外周を走った。皇居は、東京駅を降りたところから目に入る部分しか見たことがなかったが、一周走ってみて、なんだこれは、と思った。気軽に入れるわけでもなく、ただそこにある。都市の中心部になにか空虚なものがある。ロラン・バルトが東京を訪れて感じた違和感を思い出した。一周五キロのコースはアップダウンがあったものの、多少皇居という場所の特殊性に気を取られたとはいえ、走りやすい道で、ランナーもたくさんいて、風や街路樹の日陰が心地よさを提供してくれるし、身体を動かすことによって、無機質な高層ビル街にすこし人間味を与えてくれる。観光客から見たら、自分も近隣住民に見えるんじゃないか、と思ったが、まわりに人はランナーしかいないし、車道にはタクシー、それも人を乗せてない回送タクシーばかりだったので、このもくろみは外れた。皇居外周を走るタクシーの空虚さ。

 走ったあとには、スタバでメロンフラペチーノを飲み、ランニングステーションでシャワーを浴びた。スタバでは、前に座っている中年男性と青年男性が起業によるステップアップみたいな話をしていた。シャワーは気持ちよかった。午後6時ぐらいだったが、仕事を終えて皇居ランに臨もうとするサラリーマンもちらほら見受けられた。外に出ると、いまだむんむんとした熱気が押し寄せる。べっとりする感じではなく、おだやかで気だるげな感じだ。これで一日を終わりにするにはすこし名残り惜しさを感じるような空気。それに引きずられて、東京駅前の広場ですこしやすんだ。仕事を終え、同僚と親しげに話しながら駅に向かう人や、夜の時間を楽しむのか、だれかと待ち合わせをしている人などがいる。帰宅する人、遊ぶ人。おんなじ午後6時とはいえ、都市にはいろんな時間がそこにあり、グラデーションがある(しかしこれは、都市に関係なく、いつもとちがうことをすることによって、どこにでも生まれるものではないか)。ためしに自分をだれかに重ねてみる。午後6時ごろ、東京駅周辺での勤務を終え、気だるげな熱気に包まれて駅へと向かう生活。帰ったらすこし運動をするだろうか。それとも、皇居ランか。はたまた、広場でだれかと待ち合わせてをして遊びに出かける、そんな生活。どうだろう。ありえたかもな、けど、むずかしいかもな。

 ホテルの部屋に入る。ベッドに寝転がると、いまいるこの場所は都市のなかのほんの片隅なんだなあ、と実感する。いつも生まれ育った実家にいると、そこが世界の出発点であり、中心であり、帰るべき場所、という気がしてきてしまうのだが、ここはまったくちがう。片隅、仮の宿。そして、いまの自分と同じように人々がこの都市で暮らしていて、いまも蠢いている。だれもが片隅の住民として。都市を歩いていると、どんなちっぽけな店や事務所にも物語が宿っていると「感じさせられる」。都市。さまざまな来歴をもった人が生きる場所。そこにはたくさんの物語があるが、それ以上に都市という空間自体が、必要以上に物語性を街のそこここに付与してしまう。そしてそのことに自分は、すこし疲れを感じはじめている。自分をだれかに重ねてみる。都市はそれを許す。許しすぎる。どんな来歴も飲み込む。でも、むずかしい。べつの人生……。

 都市は無限に自分のありえたかもしれない人生を想像させ、地方ではこの人生でしかありえないんだと錯覚させる。それはほんとうだろうか。都市だって、だれもがだれかになれるわけではないし、地方だって、ありえたかもしれない人生は無数にあるんじゃないのか。「都市=可能性」で「地方=不可能性」という二項対立は単純すぎるのではないか。小坂俊史の「モノローグ」シリーズや、岸政彦の生活史みたいなものは、都市が生み出す無限の想像力に、人生こんなもんですよ、どこにいたってたいして変わりませんよ、とセーブをかけることなのかもしれない。どちらがいいかはわからない。

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