永遠の一回性
新しい場所を見つける度に、別の場所が消えていく
それを忘れたくなくて写真を撮っている。
述懐というより、忘却への恐れでシャッターを切ってる。
わたしが居た場所、わたしというアーカイブできない存在が居た事実が大事。この「わたし」は代替可能で、あなたでも人々でも固有名詞でもいい。その時間その場所に誰かが居た事実に、尊い永遠の一回性が立ち現れている。だから私はユートピアとか天国は興味なくて。永遠なる反復再生なんて生きながら殺されてるみたいなもんだよ
ローマのトレビの泉で撮った写真を今でも思い出す。泉に銭を投げる観光客と真逆にカメラを構え、二度と同時に集うことのない群衆を眺めた時、あ~この景色全部わたしが知覚したものだって、わたし由来の感情なんだって嬉しくなった。やはり「わたし」が居て、「人々」が居たことが重要だった。
ライブも写真と同じ。観た人にあの頃の懐かしさや苦しさを喚起する作用があるけど、その状態をかけがえがあると言うとは思えない。ライブには生きた音楽と言葉が存在して、二度と同時に集うことのない人々がいて、各々が心に宿すコンテクストがあり、どれをとってもかけがえのあるものなんてない。たとえ武道館をリプレイしたとて、1stアルバムを完全再現したとて、現在は二度と過去の空気感を目撃することはない。しかし時を経て沢山のオーディエンスが見守る豊かな景色を引き連れた現在に、過去は太刀打ちできない。
私たちはバンドを好きになってしまった時点で既に代わり映えのある日々に放り込まれている。アーカイブできない身体が左回りに走って、隣の人の背中を叩いて人間の海へ飛び込んでゆくのがライブだ。「寄せては返す波」なんて物理知ったことか、と言わんばかりに地球の引力を無視して人間で満ち満ちていく海は不安定で儚い、でも最高の景色。
身体は勿論、記憶に内包されている感情もアーカイブ不能である。初めて観た時に感動した映画は、繰り返し見るうちに感動が薄れてくるね。帰らぬ人を想って流す涙は、戻っても止まってもくれず、ただ非情に進んでいく日々のみによって枯れ、いつしか涙は欠伸に変わっていくね。
永劫回帰という安定から離れた場所にある儚さを怖れたり嘆くのではなく、永遠の一回性と美しく捉えられるように、刹那的にでも前向きに生きられるように、今は頑張っている