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言葉な音楽
拾われる音と拾われない音があるのは、
読まれる歴史と読まれない歴史があるみたい
誰もがたやすく発信源に成り得る現代でこそ、身近に思える感覚だと思う
ニュースで伝えられる報道には埋もれた人々の声があるし、
SNSの投稿で語る経験の裏には、きっと語られないまま仕舞っておかれる思い出がある
音楽、歴史、経験とかっていうのはどれもメロディなり、文字言語なり、視覚的要素なり、何らかのコードを以て表現され、特定のメディアを媒介として取捨選択のプロセスを辿りながら伝播している。CD、本、マスメディア、私たちが見聞きしたり手に取ったり知覚しうるあらゆる過程には、必ず何者かによる恣意性を孕んだコードによる叙述が含まれていることを、最近意識するようになった。
歴史は人生と同じように過去と現在の往還のなかに位置づけられるのだから、ひとたび叙述されたコードの解釈は不変でなくても構わないはず。時代背景が変われば、人物の考え方だって変わっていく。音楽もある種の歴史だと捉えるのであれば、時と経験を経て何度もなぞることによって手応えが変化していいものだ。アーティストが記述した世界をリスナーが解釈し、その解釈を別の誰かが考察する。その営みの節々に個人的な意志が結びつけられてる事実に思いを馳せると、なんて素敵な物語だろうって思うよ
しかし、時にその結びつきにおける恣意性は物語に綻びをきたす。どれだけ緻密なイメージセンサが備わっていたとしても、四角い画面に表現されうる限りでの文字ないし映像では、万人の網膜に同じ像を結ぶことはできない。音楽が好きな人達の諍いがそうやって今日も絶えない。
指の間から大事な本質を零れ落としてしまわないように、心の内面へと温度感を保ったまま真っすぐに響かせられる機会は、やはりライブに行く他ない。ただ、大切なのはひたすらに自分の中に経験を落とし込むことだと思う。誰かにこの良さを伝えたい、そのために記述できる限りのコードをもって発信したいという利他的な感情を否定するつもりはないが、自分が自分だけに共有できる感情を仕舞っておく狡さがあっていいんじゃないかな。
もっともっと利己的に、孤独に音楽を聴いて良い。
この前行ったあるライブにて、イヤホンを通じて拾っていた音の裏で、拾われてこなかった音が響くのを認めた瞬間、にわかに物語の厚みが増す感覚に陥った。より信じたいと思わされる、確かな音楽へと変わってった。
っていう直近の思い出の出力でした