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「なんか、いいのかな…」

「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもので、福島もいい季節になってきた。
行楽の秋ということもあり、東京時代の友人が福島来訪の計画の話をしてきてくれるのは、旅行ついでとはいえありがたい限りだ。

ただ、残念なことに福島市近郊には、めぼしい観光地が少ない。
もちろん、飯坂・高湯・土湯などのいい温泉はあるのだが、温泉を求めている場面ばかりとは限らない。

飯坂温泉

また、磐梯吾妻スカイラインなんかは超絶おすすめスポットなのだが、いかんせん天気に左右されてしまう。会津まで行ってもいいのだが、会津は行ったことがあるという人も多い。

安達太良山の風景

そういう訳で(?)わりと紹介するのが浜通りの今を見てもらうプランである。
前の記事に書いたとおり、中古車を一台手に入れたので、週末になるとわりとあちこちに足を伸ばしている。その中で、浜通りにはよく足を運ぶので、私自身ある程度の案内ならできる。
福島市から近いとは言いがたいが、下道でも1時間から1時間半程度で相馬や浪江、双葉、大熊あたりへは行けてしまう。また、ここ数年、東日本大震災・原子力災害伝承館などの伝承施設も整備されてきたので、いろいろと知ってもらうにはちょうどいいコンテンツがそろってきたことも大きい。
加えて、処理水の関係でフィーチャーされることが多いが、そういうことを抜きにしても「常磐もの」(福島・茨城近海で取れる海産物のこと)はうまいので、是非ご賞味いただきたいと思い、おすすめするわけだ。もちろん、人を選ぶプランだとは思うのだが、幸か不幸か交友関係として、こういうことに関心がある人が多いので、わりとちょうど良い。

ただ、わりと盲点だったのが「福島、特に浜通りにそういう観光とか軽い気持ちで行っていいんだろうか」という躊躇いの感情をもつ人が少なくないということだった。
私自身は学生時代からたびたび行っていたので、そういう躊躇が希薄だったのだが、先日も友人に浜通りプランを話してみると「心の迷いがある」と返ってきた。
なるほど、そういう感覚なんだなと少し驚いた。

ちょうど、今クールにテレビ東京系列で「姪のメイ」という浜通りを舞台にしたドラマをやっているのだが、その中で東京に住んでいた主人公の小津(本郷奏多)が福島に行くことに対して

「福島って、あの福島?」

「姪のメイ」第2話より

「福島ってさ・・・なんか、いいのかなって思っちゃうな、どうしても」

「姪のメイ」第2話より

と言うセリフがある。まさに、この迷いの感覚であろう。

観光の分野では、戦争や災害の遺跡を観光することを「ダークツーリズム」ということがある。ようは暗い側面にスポットを当てた観光の形のことで、海外なら例えばアウシュビッツ強制収容所を見学するようなものである。

言葉自体は、聞き慣れなくても日本でも意外と昔から「ダークツーリズム」は一般的ではないかと思う。例えば、広島に旅行に出かけた際に、本来の目的が宮島であっても原爆ドームや平和記念資料館にも足を運ぶことは多いだろうし、長崎だってグラバー邸とともに平和祈念像も見学する人が多いはずだ。沖縄もしかりである。

別に神妙な面持ちで広島の平和祈念資料館の展示を見た後で、宮島でシカと戯れたっていいわけで、一つの旅行に学びの側面と娯楽の側面の両方があっていいし、そうでないと流石に息苦しすぎる。
大事なのは、広島・長崎・沖縄なら戦争の愚かさを知り、二度と同じ過ちを繰り返さないよう今の我々が何をすべきか考えることであろう。
それさえ出来れば、その数時間後に中華街でおいしいものを食べたって、ビーチで写真を撮ったっていい。

福島・浜通りを訪れるのだって、それに類することではないだろうか。

・・・とは思うのだが、どうもそれとこれとでは話が違うという感覚を覚える気持ちも分からなくはない。

やはり、この国で2011年3月11日を過ごした経験というのは重いし、まだまだ続いていることを考えると、そう簡単に割り切れないような気はしてくる。
ただ、そういう被害の継続性を強調してしまうと、広島・長崎などは原爆症による被害はまだまだ続いているし、沖縄だって多くの県民が遺族である。

「当事者がどう思うか・・・」という話もありうるだろうが、その話は自分が当事者じゃないと思っているから出来る話だ。

あの日をその身で知っている人間は、程度の差こそあれ全員が当事者性を持つはずだと思う。当事者性は、あくまで強弱の話でしかなく、あの日、帰宅困難者になったり、計画停電に巻き込まれたりしていれば、それは間違いなく当事者であるし、テレビで津波の映像を見てショックを受けた、そもそもそのテレビを見るために電気を使ってきた我々がまったくの非当事者だなんて言うのはおこがましいというか、無責任ではないか。他者がどう思うかではなく、自分がどう思うかでそこは考えて欲しい。

また、当事者が・・・という話にあえて乗ったとしても、福島・浜通りに行くことが、なぜイコールで不快な気持ちになるのだろうか。
そりゃもちろん、わざわざ来て茶化したり、馬鹿にしたりされたらたまったものではないが、別にそういう気が微塵もなく、真摯に「知りたい」と思って来てくれるのであれば、ありがたい限りではないか。

むしろ、耐えがたいのは福島のことに蓋をしてしまうこと、ないものとして扱われることではないだろうか。
人間、それぞれの生活がある以上、徐々に忘れていったり、優先度が下がっていくのは致し方ない側面はあろう。だが、意識的に、あるいは無意識に”見ないようにしよう”とされるのは話が違う。

「福島ってさ・・・なんか、いいのかなって思っちゃうな、どうしても」の背景に、蓋をしようとしている自分がいないかは少し考えて欲しい。

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