東三河の中心であり続けた豊橋公園
駅から延びる大通りの中央には2本の軌道が埋め込まれている。豊橋は路面電車のある街だ。
愛知県は3つの地域、すなわち名古屋を中心とする尾張、岡崎市や豊田市を有する西三河、そして東三河に分けられるが、豊橋はその中心地だ。人口も約37万人で県下5位を誇り、トヨタ車が多く輸出される三河港を有する。また、余談の域だがチョコレート菓子「ブラックサンダー」の工場も豊橋にある。
このように東三河の中心地として発展する豊橋だが、その始まりは戦国の世の終わり頃に遡る。豊橋発展の歴史に触れるため、ある場所へ向かった。
東海道線・飯田線・名鉄・豊橋鉄道と多くの路線が通る豊橋駅は一部のひかり号も止まる大きな駅だ。その東口の一角に、路面電車の停留所がある。昔ながらの走行音が賑やかな車両に揺られていると、列車は1~2度大きく角を曲がり「市役所前」の停留所に着く。
ロマネスク様式の豊橋市公会堂の右手を進むと目の前に木々が繁る空間が見えてくる。豊橋公園、かつての吉田城だ。
吉田城は三河吉田藩の藩庁であり、池田輝政が現在の形に整備を行った。池田輝政といえば、姫路城を現在の形に整備したことでも知られている城造りの名手である。
輝政は、それまで土作りであった吉田城を石垣造りの近世城郭にする大改修を企図した。工事は、本丸周辺部から進められたものの、その途中で輝政は姫路に移封されてしまう。これに伴い、改修工事は未完了のまま終わってしまう。このため、現在見られる吉田城は石垣と土塁が混在している。
輝政の移封後は、譜代大名が幾度か入れ替わり、江戸時代中期に松平家が入封し、明治維新まで続く。
城跡に現存する建造物はないが、再建された鉄櫓が本丸に建っている。鉄櫓の周辺は城内でも石垣が多用されているエリアで、高石垣はなかなかの見応えだ。
鉄櫓のすぐ脇には豊川が流れている。吉田城の縄張りは、豊川を背景に曲輪を重ねていく形式で、いわゆる後ろ堅固の城だ。
ただ、豊川自体は水量にもよるが渡河もできなくはない。この弱点を補うために、この高石垣が築かれたようだ。
確かに、豊川を背に鉄櫓を見上げると、石垣に圧倒される。これを攻めたいと思う人間は、なかなかいないだろう。
威風堂々たる吉田城だが時代の流れには逆らえない。
明治4年、廃藩置県により吉田藩は廃止される。変わって豊橋県となるが、まもなく三河国の諸県は統合され、額田県(ぬかたけん)が成立。県庁は岡崎に置かれ、これにより豊橋の行政中心地としての地位は終わる。
だが、これで終わらないのが豊橋、吉田城の興味深い点だ。一度、豊橋公園の正門に戻ってみよう。
現在、豊橋公園の正門となっているこの場所は、吉田城三の丸口門があった場所である。実際、入口の左右は塁が積み上げられており、入口の右手には大きな石がある。
これは「鏡石」と言われるもので、このように城門の付近に巨大な石を配することで、その権威を見せつける意味がある。
吉田城跡の名残が色濃い豊橋公園入口だが、左手を見ると、また妙なものがある。
これは哨舎と呼ばれるもので、警備のための人(歩哨)がいた場所だ。言わずもがな、これは吉田城時代のものではない。明治になってから吉田城跡に置かれた歩兵第18連隊の遺構である。
豊橋公園正門は、吉田城三の丸口門跡であるとともに歩兵第18連隊正門跡でもあるのだ。一つの場所で、異なる時代の軍事遺構が同時に見られるというのがなんとも面白い。
さて、歩兵第18連隊は明治17年、旧吉田城跡に置かれた陸軍の連隊である。日清・日露、そして第二次世界大戦に従軍し、グアムの戦いで連隊のほとんどが戦死してしまう。
ただ、この歩兵第18連隊が近代の豊橋に与えた影響は少なくない。
吉田城跡が兵営として利用されたことを皮切りに、豊橋周辺には軍およびその関連施設が集積していく。
明治38年には第15師団が編成され、明治41年には近郊の高師村(現在は豊橋市)に師団司令部が置かれた。また、明治38年には第15師団麾下の騎兵第19連隊、明治42年には騎兵第25連隊、騎兵第26連隊も豊橋近郊で創設された。
これら軍施設の集積は、同時に軍事産業や商業の発展にも寄与した。
例えば、2020年に朝の連続テレビ小説「エール」でヒロインである古山裕一の妻・音(演・二階堂ふみ)は豊橋の馬具製造販売店の娘という設定になっているが、これも豊橋が軍事産業で発展していたことを表す一つのエピソードだろう。
このように陸軍の駐屯によってもたらされた豊橋の繁栄ぶりは「軍都豊橋」と称されるほどであった。
ただ、先の戦争では、軍都ゆえに空襲の対象となり、終戦時には焼け野原となってしまう。その後、戦災復興を遂げた豊橋は冒頭で述べた通り、今なお東三河の中心であり続けている。
参考:豊橋市内の戦跡については、以下が詳しいので適宜、参照されたい。