「海馬万句合」第三回 題①「くりかえし」選評
「海馬万句合」第三回、最初の題は「くりかえし」。
どうしてこの題を選んだかというと、「海馬万句合」も3回目を迎えて、これを4回目、5回目と「くりかえし」ていくかどうか、そのことにどういう意味があるのかを考える時点に来ていると思ったのが、まず一点(3回目で思いだすのが、村上龍が小説第二作の『海の向こうで戦争が始まる』を書き終わって上機嫌だった時、たまたま会ったリチャード・ブローティガンに「1作目はこれまでの人生を書けばいい、2作目はその余力で書ける、問題は3作目が書けるかどうかだ」と言われて落ち込んだ、という話。2回目から3回目の飛躍の必要・・・。ちなみに村上龍の第3作は『コインロッカー・ベイビーズ 』)。
「海馬万句合」第4回を開催するかどうかは検討中だが、この第3回が前二回に負けず劣らず面白い結果を生んでいるか、みなさんに読んでいただいて、それぞれご判断いただければ幸いである。
もう一つのこの題を選んだ理由が、内容と形式のどちらでも題を消化できると考えたこと。何度も起こる事象を書いてもいいし、作中に何らかの記号的「くりかえし」を組み込んでもいい。ということで自由度が高い題だと思っていたのだが、先に結果を言ってしまうと、形式面で題を処理しようとした作品には目ぼしいものが少なくて、その点では残念な結果だった。考えてみると、形式面におけるくりかえしは川柳においてありふれた手法であるし、また短詩という形態そのものが全体のくりかえし(認識における反復、読み上げにおける二回読み、など)をそもそも含む。題としての「くりかえし」を意識することは無駄な力みになってしまうのかもしれない。今回、むしろ他の題でくりかえしを使って成功した句があるのも、そういった理由なのだろう。
では、選評として面白かった作品を紹介していこう。111句より13句を選び、そのうち2句を特選とした。
〈 並選 〉
余熱から始める民の物語
吐きつ食いつポリエチレンの山河あり
好きというきみが透明になるまで
スプーンを潰すスプーンを潰すスプーン
右手からふだんづかいの花吹雪
劇仕立てにした永久機関の輪
馬小屋でゾエトロープが閉じている
我々がどこから来ても邪魔な犬
宇宙図書館に肉場と馬糞海胆
フィヨルドに針を落として手毬唄
ドンタコスじゃない「ったら」がスゴイんだ
〈 特選 〉
骨の模様になるまで言った
また君の乳歯で橋が建っている
軸吟 奇々怪々多士済々のマネキン忌
< 選評 >
余熱から始める民の物語
「民」はしばしば熱狂するが、現代社会においては「民」こぞっての熱狂の恩恵を「民」自身が受けることはあまりない。かつては「ポトラッチ」やより一般に地域でのお祭りとして、社会が蓄積した富を集団として一時に消費し、全体に還流させ、一部の層への富の滞留をリセットする、といったことがあった。比べて、現代のイベントはひと時の熱狂に人々を誘うものの、その後には生活の荒廃や破壊のみが残る、というのが常態となってきているのではないか。これは熱狂の単位が個々の生活とは切り離された「国家」の単位になってしまっていることが一つの原因で、近代以降の社会の根本がひっくり返されなければ是正されることはないだろう。この句はそうした時代の相を前提としたうえで、「民」の可能性を冷静に拾いあげようと努めている。熱狂の後のかすかな「余熱」、それをそれぞれの暮らしの貴重な火種としていくか、ふたたびの無駄なイベントへの浪費につなげていってしまうか、その後で始まる「物語」の展開については読者に読みが任されている(あるいは、そもそも「物語」こそが罠なのかもしれないが・・・)。
吐きつ食いつポリエチレンの山河あり
安価に生産でき可塑性が高い「ポリエチレン」は、プラスティック(合成樹脂)の中でももっとも典型的に現在の消費、浪費社会を象徴する物質である。「吐きつ食いつポリエチレンの山河」を生んでいく私たち(「食いつ吐きつ」でないことに注意。私たちは食べたから吐くのではなく、そもそも食うために前提として吐き出すといった倒錯の中で今の世界を生きているのだ)。「山河あり」は、「國破れて山河在り」(杜甫「春望」)から引かれている。ただ、国が破れつつある中、私たちに残されているのは杜甫の時代とは違い自然の山河ではすでにない。「ポリエチレン」の集積としての汚染された環境である。「世界からサランラップが剥がれない」(川合大祐)が個人の息苦しさを絶妙にとらえていたのに対して、この句はどこにも出口がない社会全体の閉塞感を淡々と差し出している。
好きというきみが透明になるまで
三句目には、一見、素直な心情の告白に見える句を選んでみた。全体の構造としては、「好きというきみがXになるまで」のXに何を代入するか、である(「ぼくを見てくれるまで」などとするとありふれたラブソングの文句になる)。さて、この句の「透明になるまで」というのはどういう事態なのだろう。悪意や諦念を読みとることもできるし、それもひとつの解釈だが、それで読み切れたと思えるかというとそういう感じでもない。ポジティブな解釈を好む人は、ここに純粋な恋心を読んで、「素敵!」という反応をすることもあるだろうし、これもまた誤読であるとは言いきれないが、またぴったりとこの句の言葉に沿っているとも思えない。読みを進めれば、冒頭の「好き」という感情、そしてその表明にどのような意味、価値があるかという方向へ行くだろう。そこでは、さまざまな読みの可能性が開かれている。いま、人を好きになるということは、そしてそれを表明するということは、いったいどういうことなのだろうか。
スプーンを潰すスプーンを潰すスプーン
形式としての「くりかえし」を使った句。「スプーン」が3回、「~を潰す」が2回と、全体がくりかえしだけで出来ている。そしてこの句をくりかえし読んでいると、視界に登場した「スプーン」が何かを潰しているので、よく見てみるとその何かも「スプーン」で、その「スプーン」また何かを潰しているから、よく見てみるとそれも「スプーン」で・・・と、グルグルとイメージが再生されつづける。アニメーションではよくある手法だが、言葉でこれを実現させるのは難しそうだ。この句は無駄な語を徹底して省くことで、イメージの循環だけを読者の脳裏に描き出すのに成功している。循環を強調するために最後に「~を」と付けくわえたらどうか、と最初は考えていたが、このままの句姿のほうがやはりすっきりする。
右手からふだんづかいの花吹雪
古川柳っぽさを感じた。そういうところからすると、裏の意味を探って、これは男性の自慰の句で、「花吹雪」として美化されて書かれているのは射精であるという読みに連れて行かれる。この句が古川柳であったとしたら、そうは読めない、という人はおそらくこの句の読者としては想定されていない。さらに裏を探って、「右手」という指定に、政治的な右・左を重ねて読む(桜のイメージが日本の保守層に喚起する効果も考えて)ことも可能だ。この句をとったのは、とりあえずこのラインの読みとしてほどよく上品にできているからである。
上記の読みで選んだので、選者の句評としては以下は蛇足だが、この読みが作者の意図ではないとしたらどうだろう、と考えてみる。その場合、日常的な語彙を使って、普通の文脈にはつかまらない言葉のかたまりとして句を投げ出しているのだろう。「現代川柳」といわれる傾向のひとつだ。
ただし、その場合でも最初の読みのように読まれることを避けることはできない。そこに言葉から発想して最後まで現実には明確に着地しないこうした句作法の危うさがある。性的な読みはまだしも、政治的な読みは・・・と言っても言葉だけが投げ出されている以上、各語に含まれうる意味を総合して、単にこじつけだない読みが発生し、それは無効だ、と作者が主張することは難しい。句の言葉に無駄がなく、完成度が高ければ高いほど、そうした傾向は強くなる。
現在の川柳のこういった読みが作者の発想とは違ったとんでもない方向にいく可能性を見ると、私川柳や私の「思いを吐く」といった指導は、一面では、あくまで作者の有り様に句の言葉を接地させることで、句の意味が政治的に危険な方向へ流れるのを回避したくれる安全弁だったということが分かる。
言葉による自由な作句は解放的に見えて、意外に近いところで現実につかまってしまうかもしれない。現代川柳はけっこう危ういところに立っているなと思う。
劇仕立てにした永久機関の輪
短詩においては、句の中には具体的なモノが入っていたほうが読みのとっかかりとなり、また読みの中での情報量を増やす仕掛けになって基本的にはよいと思う。そうしたセオリーからすればこの句は抽象的な要素だけになっており、その意味では読み飛ばされてしまう危険が大いにある。ただしこの句では、「劇」というものが始まりと終わりをもつ直線的な構造をしたもので、「永久機関」がくりかえしのループを特徴とすることを考えると、イメージの構造上のねじれが十分なひっかかりを用意してくれている。さらに「永久機関」と意味が重なって余計にも見える「輪」がイメージの領域の遊びをうまく補完してくれるので、読者としても句のポイントが受け取りやすくなっている(「輪」が最後の一文字=一音であることもこの句の完成感を高めている)。この句に描かれた「劇」の中に演者として入れられることを考えると、全身がぐにゃぐにゃと輪ゴムのようになる感じを覚える。
馬小屋でゾエトロープが閉じている
意味的に分かる/分からないの尺度で言えば、二重に分からない句である。なぜ「馬小屋」に「ゾエトロープ」(回転のぞき絵)があるのかが分からない。さらに、「閉じている」という述語は、主語である「ゾエトロープ」の通常上部が開いている形状と矛盾する。選においては、この時点で、この句を落とすという選択もありうる。
ただし、「ゾエトロープ」について調べたことがある人間なら、初期の「ゾエトロープ」で特権的に使われた画像が馬が走るシーンであったことを映像的に記憶している。その意味では、「馬」と「ゾエトロープ」は縁語である。同時に、ここで描かれるのは「馬小屋」であって走っている馬ではないので、「馬小屋」と「ゾエトロープ」の組み合わせにはやはり矛盾がある。そこへ、後につづく「閉じている」がこの矛盾に干渉してくる。文全体としての述語としては不適格な「閉じている」だが、「馬」を飼うための「閉じ」た空間である「馬小屋」の性質と強く共振する。
読者は「ゾエトロープ」が喚起する勢いよく、しかし軽やかに走る馬の動的イメージと、「馬小屋」で静止を強いられている馬たちの重々しい体躯のイメージ、また、そうした区別を生む空間の開放と閉鎖の重なりの感覚を、句を何度も読み直しながらくりかえしたどり直すことになる。ここには言語作品でしかありえない一種の快感がある。
# 「ゾエトロープ」(回転のぞき絵)については、以下を参照。
https://ja.wikipedia.org/wiki/回転のぞき絵
我々がどこから来ても邪魔な犬
二つの読みがありうる。「邪魔な」が後ろの名詞である「犬」を修飾しているととるか、「我々」が「犬」にとって邪魔な存在であるのか(「犬」が「我々」を邪魔な存在として認識しているのか)。犬は人類にとっていちばん親しい動物の種とふつう考えられている。人類史において、犬は実用、愛玩の両面で不可欠の存在としてあり続けてきた。と同時に、「犬」という言葉を私たちは、しばしば悪い意味(「犬畜生」、「権力の犬」)で用いる。仲良しを標榜しながら(だからこそ?)、実は人類と犬という2つの種には深い憎悪が刻まれているのではないか。句の中で字画の多さから重みをもって受け取られる「邪魔な」という言葉。この言葉を我々はお手軽に使っているが、文字を改めて眺めて見るとこの語には禍々しさが刻まれている。「我々」にとって「犬」とは、また、「犬」にとって「我々」とは、本当はどういう存在であるのか。
宇宙図書館に肉場と馬糞海胆
突然に「宇宙図書館」なる、この世には(少なくともまだ)存在しない場が設定される。しかもそこには「肉場」(食肉を処理する場所・設備)があり、なぜかそこには食肉ではなく「馬糞海胆」があるという。ナンセンスな光景を漢字の多い句姿で読者に押しつけることに成功していて、これだけでも面白い句である。さらに読みを進めると、SF的な場の設定は、ここで描かれているシーンが未来であることを示している。そしてその「未来」にも「肉場」という暴力的、かつ、現実的に必要とされる場とそこで行われる業務が残されている。また、「肉場」にあるであろう刃物と「馬糞海胆」のイメージから男性器と女性器を(ベタではあるけれども)想起することも自然である。「馬糞」や「胆」といった文字の生々しさも読み返すたびに強く迫ってくる。「宇宙図書館」という突拍子もない造語で世界を展開しておいて、実際に読者が受け取らされるのは、現実的な私たちの生きる条件であり、その感触はひらがなが2つしかない句姿と同じく重苦しい。
しかし、この「宇宙図書館」には書物はあるのだろうか。それがいちばん気になるが答えは記されていない。
フィヨルドに針を落として手毬唄
感覚的な句、とまずは言えるだろう。「フィヨルド」の海岸線のギザギザ具合を、レコードの針が出会う凸凹というかたちで、身近な感覚としてまず引きつけてくる。ここから聞こえてくる音として様々な可能性がある。言い換えると、句作としては、下五にさまざまなジャンルの音楽をはめ込むことができるわけだ。さて、この句で選ばれたのは「手毬唄」である。騒々しいヘビーメタルや荘厳なベートーヴェン第九、その他のもろもろを当てはめることもできることを考えれば、ずいぶん控えめな選択である。ただし、手元にコントロールできる毬と連動しながら歌われる「手毬唄」はその控えめさによって、「フィヨルド」という巨大な風景からの落差を生み、句(そして句の読み)の中にイメージや運動のダイナミックな感覚を伝える。私たちは思念、そして言葉の中では、まったく違った世界の領域を同時に想起し、体感することが出来る。
ドンタコスじゃない「ったら」がスゴイんだ
「ドンタコス」は、メキシコのトルティーヤチップスを真似てつくられた、湖池屋のロングセラー・スナック菓子。新発売のときのテレビCMで「ドンタコスったらドンタコス」と繰り返す歌が流れていたのが記憶に残っている。商品名をくりかえすのはコマーシャルの常套手段だが、「ったら」を挟んだのが耳に残るCMソングになった理由だ。確かにCM製作者の思いつきは「スゴイ」のかも知れない。とこの句の理屈は通っている。ただ「スゴいんだ」と宣言するこの句の語り手の立ち位置はよく分からない(「スゴい」からなんなんだ?)。くりかえしの歌であるが、「ったら」を使った成功をそう簡単にくりかえすことは出来なさそうだよな、と軽い発想のなかを読みはグルグルする(「スゴい」っていったいなんなんだ?)。この句をきっかけにYouTubeで、「ドンタコス」「ポリンキー」「スコーン」と佐藤雅彦企画の昔のCMをくりかえし見ていると、現在のTikTokなどの超短編動画のはしりはここだなと思えてきた。短さという点でいうと、川柳というジャンルとも関係なしとはいえない気もする・・・。一見変な句に見えて、実は正面から題「くりかえし」に向き合っている。ということで、この句は高く評価したい。
ここから特選。特選は2句。
骨の模様になるまで言った
「好きというきみが透明になるまで」という並選で選んだ句から意味の説明を徹底的に省き、感覚的映像として解像度をあげてゆくとこの句に至るのではないか。何を誰に向けて「言った」のかが省略されており、状況を推測する手がかりはない。ただ、「骨の模様になる」という結果だけが示されており、ここでも何がそうなるのかという主語が欠けている。七七のリズムの現代的な使用により、川柳のまさに骨組みが模様のように示されている句なのだ。そして、最後にぶっきらぼうに置かれた「言った」によって、何らかのメッセージ(だが何を?)を伝えようとする切迫感が鋭く尖っている。「骨の模様」にする相手に対する強い執着を感じる。というか実質、それをしか表現していない。詩的行為の芯を捉えている気がする。
また君の乳歯で橋が建っている
幼少期の終わりに抜け落ちてゆく「乳歯」は、それぞれの生の一回性を表す符号であろう。しかしこの句では最初の「また」によって、「乳歯」のあり方に、通常の考え方では一回性とは正反対の意味をもつはずの「くりかえし」が重ねられている。しかし、仏教の因縁の考え方やニーチェの「永劫回帰」、キルケゴールの「反復」のように、すべてが一回性をもつことと同時に「くりかえし」の相を帯びていることを、この世のことわりとして認める考え方もある。この句で「乳歯」が帯びた「くりかえし」の相は、その反復ごとに「橋」として現前する。この「橋」はどことどこ、何と何を結ぶことになるのだろうか。句頭の「また」と句末の「建っている」には、どうしてか分からないがそれがそこにあってしまうという語り手の驚きが感じられる。おそらく、「君」として目の前に現れる存在の一回性は、根拠のない「橋」としてくりかえし、くりかえし、私たちに彼岸への道筋を開いている。くりかえしだが、ただし彼岸はいつも新しく、私たちはいつも同じように驚くのだ。
川柳は自由なかたちをとってよいが、それでもどんな場合にも、どこかに定型の影を引きずっている。定型とはつまり、かたちの「くりかえし」のことだ。一句が生まれ、読まれてゆくことの一回性と、それにつきまとう反復。つまり、川柳を書き、読む行為は、一回性とくりかえしの間のたゆたいである。また、披講で川柳が二度読みされることが多いように、575という短いかたちにおいては、くりかえしがあらかじめ想定されているとも言える。
題「くりかえし」はそうした意味で、川柳すべてにあらかじめ含まれているテーマ、あるいは構造と重複していたのかもしれない。そのことが実際に明確にされながら、他の場所では決して生まれないここに選ばれた句たちが目の前に現れたことにまずは驚きたい。と同時に、川柳というジャンルを選択し、作品を書き、発表し、読むことで、私たちはほんとうは何を「くりかえし」ているのかは、より深刻に考えてゆくべき問題である。
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