八上桐子『hibi』を読む
八上桐子『hibi』(港の人、2018年)を読む
句集中、いちばんのキー・イメージは「水」。一句目、
降りてゆく水の匂いになってゆく
水そのものになるのではなく、水の「匂い」になる。ひんやりとした水の感触へと下降していきながら、紙一重のところで距離を保っている。水にはどこか「死」の誘惑も映っているようだが、それを、予感あるいは痕跡として呼び寄せることで、現実のありようが新鮮に切りとられる。
子に足を長めに描かれ春の象
空豆のおそらく知っている雲間
絵の中の象も、「空」-「雲」の言葉上の連想あそびから生まれる感覚も、現実との距離によって、現実を逆説的に新しく感じさせる。
噴水に虹 赤ちゃんの名が決まる
呼べばしばらく水に浮かんでいる名前
名前を主題にした二句。「水」は生の向こう側にある死を暗示するだけでなく、生そのものの揺らぎでもある。水に呼びかけること、殊に名前を投げかけることは、生の一区画をたとえばヒトとして象るようだ。
ただ、この「水」の感性を通して瑞々しく表れてくるヒトはまた、いちじるしく不安定で、変身の予感や変化の瞬間のなかでこそ、もっとも実感をもって把握される。
てぶくろの犬の匂いを嗅いでいる
走り出す小さく一度揺れてから
「犬の匂い」をてぶくろに嗅ぐことで、すでに半ば犬となっている。「走ること」そのものではなく、その行為が始まる瞬間の「揺れ」を書き留めようとすることで、何事かが起こる予感のなかに、読者をくりかえし引き戻そうとする。
そうした把握は、現実のありふれた生に対してどこか暴力的でもあって、
人間の皮膚やわらかく糸と針
踵やら肘やら夜の裂け目から
のように、生命体や世界そのものの穴や裂け目をどこかで伴っている。句集タイトル『hibi』が示唆する「日々」の「罅」といったところか。
この「罅」を日常に見出すことで、句の中の時空は自在に伸び縮みし、
レシートが長くて川を渡りそう
握った手のずっと遠くに声を出す
おとうとはとうとう夜の大きさに
と、読者を驚かせる世界を現出するのだが、作者本人はこうした世界の変質に対していたって冷静でもある。言葉がもつ魔法について、どこか、ああそうだった、とただ思い出しているような印象さえある。
こうすれば銀の楽器になる蛇口
でたらめな呪文でひらく十二月
えんぴつを離す 舟が来ましたね
「こうすれば」には、また「舟が来ましたね」の「~ね」には、熟練の魔法使いが弟子の驚くようすにやさしく答えてあげているような響きがある。
もっとも、魔法は魔法使い本人にさえその秘密があかされないとき、もっとも印象的なのではないかという気もする。たとえば、次の句のように。
藤という燃え方が残されている
ひんやりとした紫の藤が「燃え」る、ここには、最初から登場していた「水」が、ていねいに隠されていた「火」とありえない融合をとげる瞬間が幻視されている。そしてその先はたぶん、まだ「残され」たままだ。