川柳カード百句解題――「生」でどうぞ

詩誌『Lyric Jungle』17号(2014年6月)の「特集1:詩人たちよ、短詩型文藝の伝統に学ぼう!」のために書いた文です。 

 同じ575音字形式の川柳と俳句。どうしても比較されるが、どこが違うかと考えると、知っている人ほど困るだろう。俳句側から「川柳には季語と切れがない」という見方があり、川柳側にも同見解の人達もいるが、実際のところ、川柳も季節の言葉を使うし、切れだって一つの技法としてあり得る。では、区別は無いかというと、俳句として、川柳として提出される作品をしばらく眺めていると、やっぱり違うなと思わされるのである。
 まことに厄介だが、私見では、川柳のほうが「生」の言葉を使うことが多い、とは言えると思う。俳句は季語という参照項、切れという日常語とは異なった構文を強調して、言葉を「俳句語」に転ずる。対して、川柳の言葉は乱暴に現実からひったくり、ゴロンと転がしただけのようにそこにある。

ポストからまぜるな危険って聞こえたの 飯島章友
空手形と言えよ土星に聞かせろよ    石田柊馬
かあさんを指で潰してしまったわ    榊陽子

現実にはないことを書いているという意味ではフィクションなのだが、句中の個々の言葉は日常で使われるそれと感触が変わらない。いい言い方をすれば直接的インパクトがある。悪い言い方をすれば日常べったり。この感触は俳句よりは、1980年代ニューウェーヴ以降の現代短歌に似ている。
 ただし、短歌がフィクションであれなんであれ、「私」にこだわっているのに対して、川柳の「私」(があるとして)の比重は、句の言葉のもつ現実的手触りに比べ、とても軽い。

鈴買いにくれば鈴屋は来ておらず   石部明
パサパサの忍び難きが炊きあがる   きゅういち
だから鎖骨の一本くらいください   清水かおり

右の三句、それぞれ「私」に表れた感覚や事象、欲求を捉えている。ただそうした事象や感覚は「私」には定着せず、現実の方へ戻ろうする。「私」があるとしてそれは、事象や言葉の通過点に過ぎない。短歌が最終的には「私」による「報告」になるのに対して、川柳は現実であるところの言葉の、解釈を拒否した「提示」なのだ。
 現実であるところの、というのも難しい。現実は歴史的蓄積もメディアの間接性も含めての現実で、次のような句はそうした多層的な現実を切り取ったものだ。
 
花札の模様は朱鷺の親子連れ   くんじろう
キャッチコピーは雲梯の一本に  筒井祥文
月からの俯瞰 引退会見乙    兵頭全郎

あるいは、「実存」「内面」といった言葉でブンガクやゲンダイシが捉えてきた領域も、私たちの現実の一部なので、

むさらきの端をたたんで歩き出す   畑美樹
背を割って生まれるようこそようこそ 広瀬ちえみ
途中下車して揺さぶりつづけている  前田一石

という風にゴロンとぶつ切りの言葉として投げ出せば、川柳になる。
この「ゴロン」とした「生」の言葉の感触が、私が川柳だなと思うポイントだ。作品だとか表現にはなり切れない、どこに向かうか分からない言葉の塊。

礼儀知らずにも高山病になりました  小池正博
賑やかに蛇の長さを論じ合う     樋口由紀子
晴れた日を待っておばあさんを洗う  松永千秋

「だからどうした?」というのがマトモな反応。そう思いながら、胸だかノドだか前頭葉だかに言葉がつっかえれば、川柳を味わったということなのだ。
 最後に、広く一般に川柳として認識されている新聞の風刺川柳やメディアに溢れている自虐川柳(サラリーマン川柳など)について。それらが川柳であることをわざわざ否定する気はないが、ほとんどの場合は、1.言葉としての面白味に欠ける、2.現実ではなく、通念としての思い込みを書いている、の二点において、あっても無くてもよいものだ。言葉と現実が与えてくる違和を感じないのなら、言語表現としての価値がない。
――ただし、この「価値がない」になるギリギリの瀬戸際に居るのが川柳、という気もする。

  *

同じ時期の飯島章友さんの文が最近アップされていたので、こちらにリンクしておきます。この頃から、何が変わって、何が変わっていないか?

https://note.com/akitomosuplex/n/n22181ef8cc7a

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