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「朗読とトークの会 2023」@日本現代詩歌文学館 朗読作品

2024年2月18日に、日本現代詩歌文学館(北上市)の「朗読とトークの会 2023」というイベントで、詩人の小島日和さん、歌人の小原奈実さん、俳人の斉藤志歩さんとともに自作を朗読する機会をいただきました。文学館のYouTubeチャンネルで朗読とトークの動画が公開されています。https://www.youtube.com/watch?v=UilyuiYUeFE&t=5454s

ここでは、朗読した自作のテクストをあげて、少々の解説をします。

〈句集『そら耳のつづきを』(書肆侃侃房、二〇二一)より〉

明日の国の向こうはきっと駐車場

その内に令和はなかったことになる

嘴の代わりについている絵の具

きみも勿論だがむしろ枕がよく戦った

セブン&アイ・ホールディングスの小さな愛なんだ君は

未読の死か羽搏きだけじゃ判らない

エレベーター上昇われらを零しつつ

マグカップで壊せるような朝じゃない

そら耳のつづきを散っていくガラス

 これまでの代表作ということで句集『そら耳のつづきを』より10句をまず朗読。持っているのはウクレレではなく、3COINS(スリーコインズ)の「ギター/KIDS楽器」にエレキギター用のウルトラライトゲージ弦を張ったものです。弾きにくい(そもそも弾くようにできてない)ですが、ボディの素材がよいらしくまあまあいい音がします(なんでまともに弾ける弦を張って売らないのかが疑問)。プロのパフォーマーでもないし、ちょうどいいいい加減さが出るかなーという選択でしたが、どうでしょうか。
 作品内容としては、いわゆる時事(具体的な出来事を直接書き込む)ではないけれども、「時代の相」を書く川柳のあり様を伝えることを狙いとしています。韻律としては、口語を活用して自在なリズムを作る川柳の強みを示しています(伴奏をつけたのもこの点を強調するため・・・だったはず)。

〈短律句〉
血の気の多いガム

おい思想だな

サブリミナルみたらし団子

口もとを踏む

奇声緩和へオタマジャクソン

入れものがないマジうける

蘭体動物

百人一首の働くくるま

あすはわが身、おつまみはなとり

選んだ作品全体のコンセプトとしては、〈川柳のいろいろなかたちを紹介する〉ということでした。他の方は常設展「賢治に献ずる詩歌」の宮沢賢治について寄せた作品選択およびお話でしたが、特に賢治にふれる必要はないということだったので、私ひとりは賢治についてはまったくふれず(笑)。斉藤志歩さんの見事なトークをご覧ください(「砕氷船」では主に榊原紘さんが仕切っていますが、斎藤さんも話がうまいですね・・・)。
私は代わりに(?)、この短律句朗読では、オーディエンスの皆様にコール&レスポンスで参加してもらっています。妙な作品ばかりなのにも関わらず、みなさましっかりとレスポンスしていただき感謝です。

〈長律句〉 連作「曜日の感覚」より

R. Mutt の小便器の複製の写真の染み

きれぎれの夢のなかで一貫しているアーケイド

季節をブローチにして貰うつき抜ける雨

小さなスプーンもっと小さなスプーン曜日の感覚

長律句はさっと流してと思っていましたが、一句目で痛恨の読み間違いがあり・・・。最後の句のくりかえしは、二年前の暮田真名さんの「☆定礎なんかしないよ ☆繰り返し」の朗読を参考にさせていただきました。ちなみに同イベントで、昨年は柳本々々さん、一年開いて3年前は真島久美子さん(Zoomイベント)、その前が暮田真名さんの川柳作家が参加されています。文学館YouTubeチャンネル(https://www.youtube.com/@user-pc3bw8jj8d)でそれぞれ動画が公開されています。川柳作家のバラバラ感が分かって面白いです。


〈連作〉「青い月と赤い星」
愛媛県松山の市街地の北山麓に〈ロシア兵墓地〉がある。日露戦争の際に捕虜となり、輸送中あるいは収容中に亡くなったロシア帝国軍の兵士たちの墓が並んでいる。幾度か訪れたことがあったが、二〇二三年一一月に再訪した際に、墓石わきの小さな故人の名前を示した銘板に三日月や星のマークが彫られているのに、同行人の指摘で初めて気づいた。改めて見ていくと、墓の多くにはロシア正教で用いられる八端十字架の印、次いでローマ・カトリックやプロテスタントで用いられるシンプルな十字架、そして少数の墓には三日月や星が彫られているのだった。故人を悼むだけではなく、それぞれの宗教にも配慮し記録しつづけていることに感銘を受けた。と同時に、「帝国」という枠組みがあったからとはいえ、異なる宗教を信じる人々が経験と場を共有していたことが尊く感じられた。帰宅後、以下の句を書いた。〈ヤーコフ・クライマン〉の銘板にはダビデの星、〈ハジム・シャーエホフ〉の墓には三日月が刻まれている。

ヤーコフ・クライマン、君は柿が好きかい

死んだ昔むかし海がここから見えた頃

露と霜ちらちらと地上の星と月

イエスっていうテロリストが居てね

ラテン十字、八端十字、喉が渇く

皇帝のためのペダルのない自転車

詩と戦争、刻んで混ぜてハイどうぞ

サマルカンドの青だね、ハジム・シャーエホフ

川柳連作の例ということでしたが、前書きが長いのも特徴的かもしれません。〈ロシア兵墓地〉については、下の松山市のホームページの記事に、「なお、埋葬者の出身地は、当時の広大なロシア帝国の各地におよんでおり、ロシアやポーランドに限らず、現在のウクライナ、ベラルーシ、バルト諸国、中央アジア諸国が含まれています。」とあります。
https://www.city.matsuyama.ehime.jp/kurashi/kurashi/bochi_noukotsudo/russian_soldiers.html


〈近作〉
ワトソンが握るホームズの歯ブラシ

あやとりの塔へジャクソン5の5

〆切というエモい空間

ピーターのピーは自由でターはパン

職業欄が「薬玉割り」のまま死んだ

もうかみそりの踊り喰いだった

断髪式の後でニャーって言っちゃうぞ

チューインガムかと思たらアベノマスクやね

サブリミナルみたらし団子

おニャン子と書いて怖ろしくなりぬ

郵政民営化を思いだす百日紅

ご当地ソングのチープ・パープル

ときどきは知らない人に手を振ろう

驚いて叫んだことが社名になる

マスオさんを魔改造した罰ですよ

おむすびに佐藤雅彦的不安

あきらめてへそを中心に回りなさい

物真似はすべて神への導火線

ケツの穴から手ェ突っ込んできれいに洗う国会議員

二十億光年の孤独の会

家という漢字に豚が居ませんか

お前、昨日のアーティチョークだろ

句そのものが煙のようだ

 〈近作〉として、句集以降の作品からできるだけヘンなやつを集めました。時間がありそうでしたので、「ケツの穴~」の句などについて詳しく説明しようかと思いましたが止めておきました。朗読のコンセプトしては、一回読みで途切れずに次々読み上げていく、というもので、これもリズムの自由度を強調する効果があるのではと考えました。
 今回朗読して、またトークで話してみて、川柳は短歌や俳句よりははるかに朗読に向いているなと感じました。日常語や散文的文体のリズムを一番活かしている(というか、それが作品の味わいの重要な一部分になっている)のが川柳だからではないか。短歌の場合は短歌がもっている〈調べ〉の濃さが声に出したときのリズムに勝ってしまっている(それがいいか悪いかではなく)し、俳句は一句のまとまりをつくる意識(トークで名詞中心というテーマで話していること)がつよく、並べて読み上げるとどうしても単調になってしまうのではと感じました。もちろん、パフォーマンスでこうした側面を乗り越えることは可能ですが、歌人や俳人にその方面に熱心な人は少ないようですし、何よりもその必要がある、そうして大きな得があるとは思えません。
 そこからすると、朗読を短詩の中での川柳の強みにすることができそうです。私は今回のが限界なので(あっさり諦めるな!)、川柳作家のみなさん、頑張って!



〈時事句〉
引力で落ちたわけじゃない林檎 
* 「よみうり時事川柳」(『読売新聞』(大阪版、2021年6月30日)掲載。2021年6月23日に廃刊させられた香港の新聞『蘋果日報』(ひんかにっぽう、通称リンゴ日報)についての句。

 朗読での話では、時事川柳は川柳の中では傍流と簡単に言ってしまっていますが、この点は難しいところです。古川柳にももちろん時事的な側面があり、この点を拡大して評価することもできる。
 また明治末期からの「新川柳」(それが現代の川柳につながる)の起点は、正岡子規も活躍した新聞「日本」で、編集長の古島一雄がジャーナリスティックに時流をとり上げる短詩として狂句(川柳)をとりあげようと、阪井久良岐や井上剣花坊に川柳欄を担当させたことです。結局、この試みはうやむやになって、そのある意味での失敗から、より自己表現、主観的表現に傾いた近現代川柳が育っていくことになる。
 今の時事川柳は、戦後のメディア・ジャーナリズムに伝統川柳系の作家・指導者たちが(不承不承?)協力する中で育ち、そのあと徐々に彼ら(川柳界)の手を離れていく(選者がジャーナリストやコピーライターなどになっていく)ことで成立したものです。現代の多くの時事川柳はマスメディアで共有される情報をそのまま(つまりテーマ的に掘り下げたりせず)575にまとめて投げ出したものになっています。
 戦後の「庶民」~「総中流社会」のイメージが崩壊し、政治からの圧力に対するメディアの萎縮が顕著になった現時点で、メディアの情報を薄っぺらく共有することに私は大きな意義を感じません。ただし、文芸川柳が傾きがちな主観的表現もまた、近代以降の社会がもたらしたもので、その限界も同時にいま明らかになってきています。
 社会的領域と私的領域、どちらかに表現を限定するのではなく、その二つの間におきる軋み、その隙間からのぞく明るさのようなものが、川柳では書けるし、一つの方向性であると思うのですが、どうでしょうか。



「朗読とトークの会 2023」では朗読の後、文学館の濱田日向子さんご司会による「トーク」もありました。「トーク」とある通り、くつろいだ感じで話させていただきましたが、各詩型についても本質的な話ができたかと思います。こんなトピックが出ています。

58:15~ 詩歌における音について
1:04:10~ 作品の朗読について
1:10:50~  別ジャンルで書くときの意識の違い
1:16:20~ 「名詞」中心か「動詞」中心か
1:23:30~ 詩を書き始めたきっかけ
1:33:10~ 今後の創作活動について
1:36:10〜 質問「なかなか言葉が出ない、作品を書けない時はどうすればよいか」より

こちらもご視聴ください。

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