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『類題別番傘一万句集 第四集』より31句選、および鑑賞

大正期からの歴史をもち最大の川柳結社と知られる「番傘」の基幹企画である『類題別番傘一万句集』の第一集は1963年に創元社から出版されました。その後、1983年に「続」、2003年に「新」が同じく創元社から出版されています。20年ごとに「番傘」誌掲載の川柳から秀句を選ぶ、「本格(伝統)川柳」の粋を示すものとして編まれたアンソロジーです。

ここでは、2023年に出版された第四集掲載の「一万一千余句」より、私の考える秀句31句を選び、順次コメントをしていこうと考えています。31句終えるのにいつまでかかるか分かりませんが、Twitterで更新をお知らせしますので、お付き合いください。(第四集は残念ながら書店では入手不可能で、「番傘」誌を購入して掲載の入手方法に従うか、「番傘」関係者に分けていただくかになります。)



春風にあやされて行く向こう岸      渡辺しづ

ぽかぽかと温かい、なんだか眠たくなってくるような雰囲気の句です。「あやされて」ということで、句に従って読んでゆくと、自分がまるで赤んぼうになって温かい春風に包まれてゆくような心地よさがあります。しかし、行き先が「向こう岸」となると、この心地よさに身を委ねて大丈夫だろうかと考えさせられます。もしかすると、この「向こう岸」は死後の世界なのではないか。気持ちよい春風が吹く日にいつもの橋を渡って向こう岸に渡る、と実景として読んでもよいのですが、そうした日常の行き来の中に生死の往還が含まれていること、そして私たちが生まれたばかりのとき生と死の境にあったことを、「あやされて」が思い出させてくれるようです。

逢う日まで月遠くなり近くなり      真島久美子

はんなりとした「逢う日まで」の導入があり、ゆったりとした「遠くなり近くなり」で、まさに「番傘調」というリズムを感じさせる句。ですが、その「遠くなり近くなり」するものが「月」であることを意識すると、ゆったりとした時間と安心できるリズムと思えたものが、急に、不安定さをもった簡単に見通しが出来ない揺らぎに変じて感じられます(地球と月との距離の変化はかなり大きくまた一定していません―参考の記事参照)。一見昔ながらの恋句ですが、心の揺らぎの表現に新しさがあり、またスケールの大きな発見もあり、また女性の身体性につながる重層的な句です。「遠くなり近くなり」と繰り返しの意味ながら、「近くなり」が後ろに置かれて希望の方が強調されていることが読後感を明るいものにしてくれます。
参考:「地球に最も近い満月(2020年4月)」(国立天文台)
https://www.nao.ac.jp/astro/sky/2020/04-topics01.html

春はあけぼの素焼きの子らが光りだす   高畑俊正

「番傘」の川柳(また伝統川柳一般)は基本的にリアリズムで、現実の景を反映している句が多いですが、『類題別番傘一万句集』掲載の句にも、そうした枠組みに収まらない作品があります。「番傘」同人以外の作家の作品、「番傘」同人でも関西以外の地域の作家にその傾向が大きいと感じます。高畑俊正さんは愛媛・松山の作家で、メタファーとしても読める言葉づかいを用いた抒情性の強い作品が多い。この句は『枕草子』からの「春はあけぼの」のフレーズの引用から始まり、「素焼きの子ら」という複数の解釈が可能なメイン・フレーズがあり、「光りだす」という象徴性の高い動詞で終わる。「素焼きの子ら」は釉薬を使わない素焼きの焼き物の人型なのかも知れないし、「素焼き」を思わせるような肌をした本物の子供たちなのかも知れない(また、その二つのあわいに不思議な存在として浮かび上がってくるようにも感じられます)。ともあれ、春において一番美しいという「あけぼの」の明るみが増してくる中で、自ら発光するように闇から現れてくる複数のお互いに響き合う存在がある、その美しさ。「素焼き」の語から視覚に留まらず触覚も通じた実体感が伝わる、静かながらも印象的な句です。


開花予想も死期も外れること多し    西山春日子

時間的な予想としてポジティブな「開花予想」とネガティブな「死期」を対照的に並べたうえで、そのどちらにもあざやかに肩透かしをかましている。ベテラン作家の生活と句作双方での余裕を感じさせます。対照的と最初に書きましたが、西行法師の「願わくば花のもとにて春死なむその如月の望月のころ」から、梶井基次郎の「ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている!」(「桜の樹の下には」)まで、桜と死は文芸的にイメージとして深く結びついています。そこから考えると、そうした日本文化の一種のステレオタイプを借りながら軽やかに越えていくところに、この川柳(あるいは川柳というジャンル?)の面白みがあると思います。リズム的には七七五音(一つ上の「春はあけぼの」の句もそうですね)で、上の句を七音にするのは川柳ジャンルのひとつのパターンとして知っておいたほうがよさそうです。また、この句の場合は中の句から下の句にかけて句またがり(七五の切れ目と言葉の意味上の切れ目がズレている)で、その句またがりのリズムが「外れること多し」というスピード感のある言い切りに説得力を与えています。テクニックを強調し過ぎるのもなんなのですが、一見すっと言い切ったように見える句にも(そういう句だからこそ?)韻律上の仕掛けがあることは注目に値するでしょう。


むせかえるような昭和のにおいだな    本庄東兵

川柳は声に出して受け取られるジャンルであるという見解もありますが、書かれた作品としてはやはり、句語を漢字にするかひらがなに開くかで大きく印象が変わります。この句では ひらがながつづく中に浮かぶ「昭和」という文字が印象的で、読みあげたときと近い魅力も感じさせるように働いているように思います。「咽返るような昭和の臭いだな」と漢字混じりだとクドい説明に見えてしまうところを、上五・中七にまたがる「むせかえるような」で軽い句またがりのリズムが印象づけられ、そこに「むせる」ときの呼吸の乱れ、息苦しさが感じられます。「におい」は、「匂い」(いいにおいに用いられる)や「臭い」(こちらは悪いにおい)というふうに価値づけできない独特の嗅覚でしょう。ただし、この句を川柳として成り立たせているのは最後の「~だな」です。価値づけできないが自身にとっては決定的な何か、それを感じていることをただ静かに認めている。次第に遠ざかってゆく昭和という時代についての感覚を、もしかすると昭和を生きたことがない世代にも想像させるような句です。また、後につづく平成や令和はそのような「におい」を残していくのだろうか、というようなことも考えさせてくれます。


巡礼の魂はまだ生臭い        西美和子

前句と同様、過去に結びついた嗅覚にこだわった句です。ですが、こちらの句は「臭い」と漢字表記で、さらに前に「生」がつくことで、生理的なレベルの不快さをはっきりと印象づけています。 「巡礼の魂」というステレオタイプ的には清らかさと結びつけられそうな言葉を「生臭い」と言い切るのはあえて相容れないものを並べる撞着語法であり、この手法はベタな印象に終わってしまいがちなのですが、この句では「まだ」という副詞があいだにあることで自由な読みが生まれ、読者それぞれがもつ歴史や時間の感覚が反映されるようになっています。私としては、「まだ生臭い」のであればこれから先は脱臭されていき無臭になってしまうのではと思え、そうした身体性や環境と切り離された世界に恐ろしさを憶えてしまいます。他の連想としては、放浪の自由律俳人・種田山頭火の人生です。托鉢に出ながら酒を止められず、自分の子供からも生活費の援助を受け、松山の支援者が用意してくれた庵でくたばった山頭火。その枯れることができず、最後まで体臭を感じさせる生き様こそが、彼の俳句の魅力を支えている。山頭火を登場させる川柳は多いのですが、そのほとんどは彼のイメージをうわべだけなぞったものです。むしろ山頭火が登場しないこの句にこそ放浪の詩人のあり様が写されているように感じます。


罪状をぽつりぽつりと鍋の蓋      真島美智子

鍋のなかの何かが煮立っている。蒸気に押しあげられて時々浮きあがる蓋の端から少しずつ洩れ出してくるものがある。そうした実景を「ぽつりぽつり」というオノマトペで丁寧になぞりながら、その洩れ出してくるものは現実ではありえない「罪状」だと言う。実際の句の中の言葉からすると、「罪状」という重い言葉が読者に手渡された後、そのテーマを実感として受け止める現実の景が置かれているというべきでしょうか。全体として「鍋」の擬人化が起こっているともよめますが、人(の魂?)が鍋でぐつぐつ煮られて(五右衛門の釜茹で?)いてその人物がたまらず罪を告白しているともとれます。しかし、この句を読んで心を惹かれるのは、煮られている存在よりもむしろ、そのように吹きこぼれる「罪状」を静かに見つめている視線です。視線は定まって静かなのですが、そのせいでかえって見つめている存在の心中には強烈な感情がはち切れんばかりに渦巻いているように思えます。この「罪状」は視線の主が問い詰めている相手のものだろうか、それとも視線の主その人のものなのではないか、と様々な読みが広がります。


おっぱいに飽きて小癪なあくびする    山本進

伝統川柳の技法の一番のポイントは、写実的だが省略がうまく効いていて、自然に読みとれるがクドくなっていないというところだと思う。この句の場合でいうと、「あくびする」のは当然、かわいらしい赤んぼうだ、と読みとれるということである。主語(主体)の省略が読みとれて、その言葉として隠された部分=文脈としてはいちばん重要な部分がしっかり伝わり、そのうえで「小癪な」という赤んぼうにはふつう使わない言葉を合わせていると気づくと、読者のなかに良質なユーモアとしてこの句の実質が定着されることになる。句会での披講を考えてみると、最初に「おっぱい」という印象の強い、文脈によってはどぎつくなる言葉が来て「えっ」と思わせられるものの、中七・下五と進むなかで「ああ、そういうことか」という納得と安心がゆっくりと広がる。
 と書いたものの、実際、どのぐらいの一般的な読者がこうした省略を「自然」(「一読明快」?)に読みとるかは、今ではよく分からない。「「あくびする」のは当然、かわいらしい赤んぼうだ、と読みとれ」ない層が増えているのではないだろうか(この句に限定せずに、同じような省略技法を使った句でも考えてみてもらいたい)。最近の句会では、一句に対して様々な読みを加えるのをよしとする態度が主流になっているように見受けられるが、そうした傾向と、伝統川柳が求める共有された「自然な文脈」による読みの限定ははっきり対立する。下世話なのを承知で書くと、この「あくびする」のは「おっさん」でも或いは「若い女性」でもよい(だって、はっきり「赤んぼう」と書いていないから)、という見解をどう考えるか。「赤んぼう」が「自然」に登場する文脈はどのぐらい自明のものだろうか。
 同じようなことは、このページにあげたたいていの句についていえるだろう。たとえば、一つ前の「罪状をぽつりぽつりと鍋の蓋/真島美智子」に対する私の評は、台所で料理をしているおそらくはそれほど若くはない女性の視点で書かれている、という印象を背景にしている(そして、作者名を外しても、私の初読の印象は変わらないし、「伝統川柳」をある程度経験してきた読者であればそう読むだろうと予想できる)。つまりは、ジェンダー役割についての私自身も共有している古くさいイメージを「自然な」文脈として句を読んでいるわけだが、そうした文脈と句を切り離したとき、この句は別の豊かな読みを与えてくれるだろうか。
 一句の評の範囲を超えてしまったが、過去・現在・未来の川柳を考えるうえで重要なポイントだと思う。


行くあてもないのに髭が剃りあがる    西山春日子


会えるうち会おうだんだん日が翳る    片岡加代


以降の句(この順通りに書くとは限りません)

そんな訳で始発電車で帰ろうか/壷内半酔

軽薄なことばに乗らぬ肩の雪/田頭良子

この中はちょっと暗くて楽しいよ/小梶忠雄

少しずつこわれて百へあと二つ/園田恵美子

さてどうするかおしぼりで顔を拭く/本庄東兵

がらごろとストレッチャーの乗り心地/浅原志ん洋

呼び鈴を押した私を見ているな/奈倉楽甫

秋だ秋だと風鈴がさわがしい/天広玲

みぞおちをゆっくり落ちる通夜の酒/大原雅女

また降ってきましたなあとぬるいお茶/笠川嘉一

校正へスイートポテトも焼きあがる/西澤知子

天敵だろうゴキブリにしてみれば/岩井三窓

白タンポポがゆらり亀石/樋浦桜竜

それならとジャガイモの芽が伸びてくる/井上せい子

菜の花もすこし疲れる時刻表/森中惠美子

生きているンだよ手紙書いている/神谷三八朗

節電というさわやかに脱ぎますか/森中惠美子

仮設から軽い孤独の棺が出る/加藤角市

死んでシベリア生きて舞鶴そして今日/土居哲秋

まんまるの月と争いたくはない/森田律子

窓枠を揺らし夜間の米軍機/淡路獏眠


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