それって学説?感想じゃね? その2 鎌倉時代のはじまりはどこだ?
前回は英語史における「時代区分」を取り上げて、「学説の条件とは何か?」考えてみた。今回はさらに理解を深めるために日本史に挑戦する。その2でも述べたように、当初、邪馬台国論争を事例にしながら検討しようと思っていたのだが、heldioで英語史の時代区分が放送され、これを事例にして考えてみた、そして、考えているうちに、「時代区分」は学説について考える格好な材料ではないか?となり、さらに日本史ではちょっと前に鎌倉時代の時代区分が変わったとか言ってたよな。これ深掘りしてみるとなんか出るのでは?というわけで、ときは千年遡りましょう。
鎌倉時代のはじまりといえば、私たちの世代は「いい国つくろう鎌倉幕府」の1192年である。これは頼朝の征夷大将軍の就任を鎌倉幕府のはじまりとみたことからくる。では、この長い歴史を持つ1192年を退けて新しくその地位を獲得したのは、1185年。侍所が設置された年だという。一体全体何が起こったのか?
(1)時代区分を決める際の基準とは?
前回、英語史の「時代区分」について考えたフレームにそって考えていきたい。まず、日本史における時代区分を決めるときの基準はなんだろうか?
日本史で言えば、縄文時代、弥生時代、古墳時代などを除けば、ほとんど政治的な要素によって区分されているようだ。奈良時代、平安時代は政治の中心地が決め手隣、鎌倉時代〜江戸時代は政権(幕府)の違いが基準となっている。さらに、政権の違いを基準にするにしてもさらにいくつかの基準があるようだ。
そのうち、はじまりをどこにするのか?について今回考えるわけだが、今回の鎌倉時代について考えてみると、1)トップ(人的要素)に注目する、2)地理的な支配の完成に注目する、3)政治機構の完成に注目する、かによって異なってくるようだ。
さらに、1)のトップに注目するとしても、それを公的な役職への就任で判断するのか?どの役職に就いたときとするのか?などと、樹形図のように選択肢が広がる。2)、3)の基準についても同じように樹形図が広がる。よって、一つ一つ整理していかないととんでもないことになる。無節操な主張の氾濫が生じかねない。
(2)鎌倉時代のはじまり、について考える!
早速、今回のテーマを(1)に沿って整理していこう。
1)トップの態様に注目すると、
①征夷大将軍就任→1192年
②右近衛大将就任→1190年
③鎌倉殿と呼ばれる→1180年
2)支配の態様に注目すると、
①守護地頭の設置→1185年
源頼朝が、後白河法皇に守護と地頭設置を認めさせた
② 東国の荘園・国衙領の支配権確立→1183年
頼朝が東国の支配権を朝廷に認めさせた。
3)政治制度の態様に注目すると、
①公文所・問注所の発足→1184年
政府の主要機関である政所や問注所が発足した
②侍所の発足→1180年
源頼朝が関東に基盤を築いて鎌倉に入り、侍所などが設置された
と、することができそうだ。
(3)「鎌倉時代のはじまり」はどう変わった?
で、鎌倉時代のはじまりはいつになったか?2006年版の多くの教科書で「鎌倉時代」のはじまりは1192年から1185年に変わったそうだ。1192年はもちろん頼朝が征夷大将軍になった年でこれは(2)の基準でいけば、1)トップの態様に注目した区分と言える。また、新しい区分となった1185年は、守護地頭が設置された年で2)支配の態様に注目した区分といえる。
では、この事態を教科書はどう説明しているか?日本史最大手の山川出版社の「詳説日本史研究」(もっともスタンダードな参考書)には次のようにある。(p137)
「これまで以下の6説(詳細は割愛)が主張されてきた。見解の対立は、論者の幕府観の相違によってもたらされている。・・⑤⑥、とくに⑥(1192年説)は幕府という語の意味に着目したいわば語源的な解釈であり、古くから主張されている。これに対して他の4説は、軍事政権としての幕府が成立してくる過程を問題にしており、中でも④(1185年)が最も重要な時点であるとして、現在ではこれを支持する学者が多い。しかし、幕府の基盤は東国にあり東国の支配政権としての性格を協調すべきだとすれば②説が有力になり、軍事力による実力支配を重くみれば、①1180年の見解が主張されることになる。」
これはおおいに問題であると言わざるを得ない。もちろん「時代区分」の見直しが俎上に上ることは問題ない。むしろ、有意義でもある。こうした区分は決まれば放ったらかし、ということが多いが、こうした区分は何のためにやっているのか、常に頭の隅に置いておくことは重要である。しかし、今回の時代区分の変更はそれとは無縁。時代区分を決める際の基準に手をつけているのだ。
なぜ今回その基準を変更する必要があったのか?全く見えてこない。それまではトップの態様を基準として、頼朝が幕府のトップに立ったときを鎌倉幕府の成立としていた。ところが今回、突然「支配の態様」に基準が切り替わりこの事態となった。時代区分を定める基準は法律の世界でいえば「憲法」のようなもの。コロコロ変えるものではないし、変えるとすればに研究とは切り離してきちんとした議論を経るべきだ。
ところが、教科書他の関連書籍をみてもそうした議論があった気配はない。つまり、基準についての議論をしないまま違う基準に乗り換え、「守護地頭の設置をもってはじまりとする」という考えが採用されたようだ。もしこれが許されるなら、今後も研究者の鶴の一声で変更されることがあるだろう。こうした状態は、研究者や学習者にとっても決して好ましい状況とは言えないし、頻度が高くなれば教科書の改訂などの多額の財政負担を伴うことになろう。
そして、今回のような「時代区分をどうするか問題」の根底には、学問の自由という美名のもと、研究者の主張を検証しないまま「学説」と称するに任せていることが、個々の研究案件における議論の堂々巡り、さらには迷宮入りを招いているのでは?と推察する。
では、それを防ぐためにはどうすべきか?「学説」とは何か?を改めて定義し、さらに「学説」と称するためにはどんな要件が必要か?すなわち「学説の条件」を明らかにしておく必要があるだろう。
次回は、それへの挑戦である。