自己紹介
「どこでも生きていける自分になる」
これは私が10代の時に自分に掲げた目標。
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物心ついた頃から漠然とした不安が私には付きまとっていた。それがどこから来るのか分からないけれど、他の子供と比べて自分は決定的に何かが欠落していると思っていた。
私は子供の頃、場面緘黙症(ばめんかんもくしょう)だった。ある特定の場所で全く喋れなくなってしまうのだ。子供達だけで遊ぶ時、私は人一倍活発な子だった。普通に喋ったし、足だって男の子より速かった。今思い起こすと、それは大人がいる場所限定で起こっていた気がする。
3歳から13歳まで続けたバレエ教室
こんなに長く続けたのに、私はほぼ一言も言葉を発することはなく、友達を一人も作らなかった。ただ踊りで表現をすることに喜びは感じていた。
学校
絶対に自分は悪くない時でさえ、先生に責められると何も言葉が出てこなかった。
親戚
正月にしか会わない親戚の家。ずっと父の膝の上にいた。なぜ他の子供達は見ず知らずの大人にすぐなついて可愛がられることが出来るのだろうか。「あんたは損な性格だね」母はいつもそう私に言った。
18歳 進路
私は人生で最も大きな決断をした。
進学はせず、劇団の養成所に通うことにしたのだ。この私が?自分でも驚いた。でも本当の私はいつも私に訴えかけていた。これは本当の私じゃない!もっと自由になれるよ!恥なんてかいたっていいじゃない!
入所オーディション
人生で初めてのオーディション。演劇人生で一番最悪の瞬間。一枚の紙にシチュエーションと台詞が書かれている。
山を登ってくる。遠くに見えるおじいさんに向かって呼び掛ける。
「おじいさぁ~ん!お~い!お~い!すいませ~ん!」
それだけ。よりによってその台詞のチョイスをした劇団側を呪いたい気分だったけれど、洗礼をうければ、後のことはだいたい乗り越えられる。
お~い!お~い!
養成所時代
中学も終わりの頃には、場面緘黙症はほとんど無くなっていたけれど、長年一緒に居続けた呪縛はそう簡単には私を解放してくれなかった。
養成所時代初期の頃、私は本当によく泣いていた。それは演技が出来ないからとか、悔しくてとかではなく、人前に出て何かしら自分の言葉を発する時や、自分の演じている役がちょっと悲しくなっているシーンなんかでは、台本関係なく涙が溢れて止まらなくなった。
劇団の仲間達はそんな私を素直な奴だとか、面白い奴だという風に捉えてくれて、私はのびのびと劇団での時間を過ごし、卒業公演では主演を演じた。
カナダ 憧れの海外生活
女優は続けたかった。でも海外にも行きたかった。だから色んなこと(将来への不安とか、全力で反対して私を不安にさせてくる母とか)を振り切って、カナダに1年間行くことにした。
数年バイトで一生懸命働いて貯めたお金は、飛行機代、1ヶ月のホームステイ代、1ヶ月の語学学校代、保険料、その他細かいものもろもろを払えば、手元に20万ぽっちしか残らなかった。
今考えると恐ろしいけれど、それで私はカナダに渡った。最初の1ヶ月は住む家と学校に行く予定があったけれど、その先は白紙だった。おまけに私の語学力は悲惨だった。最初の数ヶ月は、本当に自分だけが宇宙人のような気分だった。
日本について話して下さい
これは海外に行ったことのある日本人なら全員が通る道。「英語で日本について語る」、だ。
私にもすぐにその機会はやってきた。ホームステイ先についた初日、その日カナダは「サンクスギビングデー」だった。つまり感謝祭。これは親戚中が集まってターキーとかのご馳走を食べてお祝いをするイレギュラーな日。なぜそんな伝統的な家族の集いの日を狙ってはるばる日本から来てしまったのか、なぜ一日ずらさなかったのか、自分のバカバカ。日本からやって来たヨレヨレの娘が参加するのは場違い、毛色違い、間違っちゃった感満載なのだけど、笑顔で乗り切るしか道はない。カナダ人の陽気な家族は日本からやって来たジャパニーズガールに興味津々で、次から次へと容赦なく英語で質問を投げ掛けてくる。
「カナダに来て一番驚いたことは?」
「日本とカナダの一番の違いは?」
「日本で子供達はどこで遊ぶの?」
その夜、サンクスなギビングデーを乗り切った私は、気絶するようにベッドで眠った。
語学学校
語学学校の机はコの字型に置かれていて、全員の顔がお互い見れるようになっている。日本の教室は全員が同じ方向を向いて、発言をしなくても授業はどんどん進んでゆく。語学学校は一つのテーマをディスカッションするので、必ず発言権は全員に回ってくる。クラスメイトは下は小学校高学年から上は40代くらいまで。答えは教科書ではなく自分の中にしかない。みんな国が違えば正解なんてない。だから出来るだけユーモアを交えて会話を進めることが大切だって、みんな分かっている。
仕事を見つける
語学学校はあっという間に卒業。もちろん語学力の進歩なんて微々たるもの。語学学校で知り合った友達に励まされながら、私は何度も自分の足で履歴書をレストランに配り歩き、最後の最後で日本食レストランにフルタイムで働くことが決まった。家はホームステイをさせてもらったシングルマザーの家にルームシェアという形で、家賃550ドルを払っていさせてもらうことになった。私はその家で邪魔にならないように、でも部屋にこもりすぎないように、家族と関わりを持ちながら生活をした。
1年後 日本に帰国
カナダに残って労働ビザを取る人もいたけれど、それは甘い響きの気もしたけれど、私は日本に帰ることにした。母のいる実家に帰ると思うと本気で体調を崩した。でも、まだ日本で私にはやることがあるという直感に従った。いや、カナダで暮らす不安に負けたのか。とにかく一度日本に戻って、きちんと働いてみよう。当時私は就職をしたことがなく、それがコンプレックスだったのだ。
日本で就職 ヨガと演劇の再開
元々痩せていた私は、子供の頃から続けていたバレエを辞めた影響で、高校で突如激太りした。
それからはダイエット地獄だった。とにかくカロリー神話に惑わされ、食べない、運動しまくる、爆食い、(時々吐く)、自己嫌悪、食べない、運動しまくる、これの繰り返し。そんな私を救ったのはヨガだった。劇団養成所卒業後から本気でヨガにのめり込んでいた。食にも自然と興味が湧き、人間は出来るだけ自分の住んでいる地域から近い場所で採れた旬のものを中心に、たんぱく質や炭水化物もバランスよく食べると、心も体も安定してくるようだった。色んな栄養論があるけれど、私にはそれが一番合っていた。それでカナダのワーホリ費用を貯めながら、ヨガインストラクターの養成所に通って、資格だけはカナダに行く前に取っていたのだった。かなり不安はあったけれど、私はホットヨガの会社に就職をした。お客さんにヨガを教えるのは好きだったけれど、風当たりの強い先輩や、会社と家の往復だけの生活はつまらなく、私は休日の週2日を演劇スタジオに通うことに決めた。
演劇スタジオ
毎週2回は演劇スタジオ通い。仕事中フロントに立っている時は、パソコンの画面に台本を立て掛けて台詞を覚えた。休憩時間は電話で仲間と練習、お客さんが帰ったあと掃除をしながらヨガスタジオの鏡の前で台詞をぶつぶつ……、家に帰ってからも練習。そんな生活を4年続けた(途中職場は変えたけれど)。私はスタジオで一番上のレベルのクラスに在籍していた。周りは大手の事務所に所属してる若い子や、子役からやっている子、映画一本でやっているベテランがいて、私だけが何だか毛色が違っている気がしていた。先生に
「仕事を取ってこい。お前は絶対に売れる」
そう言われるたびに、ぎゅっと体の奥に嫌な力が入った。けれど、「お前は絶対に売れる」その言葉は甘く響いて、私を突き動かした。
迷い
その時私は20代後半。演劇の世界を知らない人からすれば、そんな年でまだそんなことやってるの?と思うかもしれないけれど、案外どこの世界でもいくつになっても花開かなくても続けている人はいる。50代から第二の人生で演劇を始めて、仕事をちゃんともらって活躍する人もいるから、こればっかりは分からない。私はというと、とにかく悩みに悩みまくっていた。その時在籍していたクラスはプロで仕事をしているか、実力があると認められた人のクラス、という書いていても体が痛くなってくるような高慢ちき名目のクラスで、二週に一回の頻度で開催された。
映画や戯曲のワンシーンを行い、台詞、役作り、衣装、セット、等の準備を全部ペアになった人と休みの間に行う。当日は舞台の本番同様皆の前で一発勝負。それでよっぽど出来が良ければ一発OK。通常はもう少しここを変えて?という要求に柔軟に答えられるかという所も実力として見定められるクラスだった。おまけによく分からないプロデューサーやらが毎回見学に来ていて、クラスメイトは誰かの目に留まるチャンスを掴もうと必死だし、先生は肌をツヤツヤさせながら得意気な顔をしてるのだった。
私は以前いたクラスが恋しくてたまらなかった。前のクラスには「声の位置を変える」というレッスン内容があって、声の出所を頭のてっぺん、鼻、喉、お腹とかに変えると、声が高くなったり太くなったりして、それだけで役作りの大きな助けになる。声の位置を変えて、その日与えられるお題を皆の前で自由に喋るという遊びも混じったエクササイズだった。私はそれが大好きだった。声以外もこの声のキャラクターはこんな人物だとかまで想像しながら、でも話す内容は私のまま、というアンバランスさが面白おかしくて好きだったのだ。私はそれに毎回本気で飛び込んでいた。見ている人達、見学の人でさえも腹がよじれるくらい笑ってくれるのを見ると、よしっ!と思ったし、クラスのエネルギーが一気に上がるのを肌で感じて、嬉しくなる。良いエネルギーは空間に残り人に伝染し、そのあとの仲間達もエクササイズに全力で向かえる。私はとにかく人や場所のエネルギーを見ていたのだと思う。だからそのプロだの実力だのがあるクラスにいると息がつまるし、そのくせ仕事を取ってこない自分はダメな奴だとも思っていた。レッスンは好きだけれど、仕事を取らないのなら、ここは去るべきだなと考えていた。
崩壊
物事には始まりがあって、終わりがある。なんだかんだ無理をしても、結局そのことが最終的な決定打となり終わりはくる。私は4年いたスタジオを離れた。高慢ちきかもしれないけれど、彼らはただ一生懸命なだけで、私が駄々をこねていただけかもしれない。私は私が正しいと証明したかったから、どこかで彼らに失敗して欲しかったのかもしれない。私は楽しかった「声の位置を変えるクラス」を捨てきれず、私の中の成功は、あの輝きの中にヒントがある気が、今もなおしている。人の本当の成功は、自分自身が我を忘れるくらい本気で楽しんでいる瞬間なのではないかと思う。それをしてる時、人からどう評価されるかとか、それがどう今後に影響するかとか、考えている余裕なんてないと思う。でもそれは、周りの人も必ず巻き込んで幸せにする力を持っている。仕事を取るために、もっと気に入られる人になれと、さんざん言われたけれど、そこで言う所の気に入られる人って自分を過小評価していて相手をも馬鹿にしていて嫌なんだよ。私なら自分に媚を売ってくる人と仕事なんてしたくない。そうゆう奴は、自分のことばっかり考えて、ろくな仕事をしないから。
始まり
「どこでも生きていける自分になる」
10代で掲げた目標は、今も私の中に存在する。
当時の無鉄砲だった私と今の私が捉える言葉のニュアンスは少し違う気がするけれど。
私は色んな人を切り捨ててきて、とんでもなく間違いを犯しているかもと思う時がある。でも人は本来どこにいても自分らしく生きれるし、人の役に立てる。それを忘れると、人は場所とか地位とか人とかにしがみついて、ドロドロと重たいエネルギーを発し何世代も後にまでそれを残すくらい邪悪に変貌する。
歌って
踊って
笑って
生きる
それが馬鹿みたいで、意味の分かることしか分かろうとしないのが、頭のいいことなの?
あとがき
最後までお読みいただきありがとうございます。
これは今から数年前に、私が別のアカウントを使って書いた記事です。
文章とは不思議なもので、同じ内容を書こうとしても、その時の熱量や言い回し、テンポ感はその時より上回ることはないように思います。(なので、タイトルのみ変えて自己紹介として載せることにしました)
いつかいつか、と後回しに生きるよりも、今でてくる熱量こそがベストだと信じる強さが大切なのだと、過去の自分に背中を押されている気分です。
「書く」という力の不思議を、このブログを通して表していきたいと思っています。
すべての人には無限の力が秘められていて、想像した時点で50%それは叶っていて、書いた時点で70%叶い、残りの30%が行動によって変わるのだと思います。
また、「過去の傷」や「未消化の思い」も書くことで浄化され、前に進むことができるように感じています。
ちょっと不思議な話や、戯曲なんかもアップしていく予定です。
どうぞ、よろしくお願いいたします。