社会的構築物としてのセックスとジェンダー

セックス, sex =身体的な性(性器に基づく男女の区分)、ジェンダー, gender =社会的な性(男性的と女性的、役割)???。
長いこと、その概念が普及し始めた時期に得た知識から漠然と分かった気になっていましたが、ジェンダー平等やジェンダーレスなどが一般的な用語として聞かれるようになった昨今、正直なところ上に記したものより深い定義も用法も知らず、ふわっとした理解にとどまっていました(そんな方、多いのではないでしょうか)。

先日授業のために「セックス」と「ジェンダー」のカテゴリを再検討するとある論文を読み、その既存の概念が揺るがされる体験をしたためここにまとめておこうと思います。そう言われてみればジェンダーってなんだ?セックスって生物学的な性以上の意味合いはないでしょう? ……そう思う方に読んでもらいたいです。参考文献はアメリカ合衆国の哲学者であり、現代フェミニズム思想を代表する一人とされるジュディス・バトラー Judith P. Butler による 「パフォーマティヴ・アクトとジェンダーの構成」"Performative Acts and Gender Constitution: An Essay in Phenomenology and Feminist Theory” (1988) です。

ジェンダー=社会的行為の繰り返しによって構成されたもの

まずバトラーは、ジェンダー・アイデンティティとは時間をかけて繰り返される行為によって構成されるものであり、確固たるなにか「原点」のようなものではないとしています。つまりジェンダーに関して身体に内在化された本質・本能や、真実のようなものはないということです。

ジェンダーは「存在」ではなく「行為」であり、ある行い(例えば女らしい または 男らしい 振る舞い、仕草、話し方、など)をすることによって、私たちはそれを自然なものとして見るようになります。つまりジェンダーが「ある」のではなく、社会的な行為によってジェンダー・アイデンティティを形成している。そしてジェンダーの必要性と自然性に対する私たちの信念を、その行為を繰り返すことでより強固なものにしているというサイクルになっているわけです。

さて、どうして私たちは「ジェンダーとはこういうものである!」と思い込んでいるのでしょうか?バトラーいわくジェンダーは社会の強制による行為の繰り返しによって生み出された虚構であるとされているにも関わらず……。

実はそれは、「事物を客体化(objectifying)する」という働きが、その過程にある慣習や偏見などを隠してしまうからなのです。客体化されたものを見るとき、私たちはすでにそれが偏りのない、疑いようのない真実であるかのように感じるようになっています。

これはいわば女性の身体は本来性的なものではないのになぜかエロの対象になっていることをもはや誰も疑わない、みたいなことです。女性の身体は女性のものに他ならないのに、なぜか社会的には「パンチラ、パイスラ、絶対領域、・・・うお〜〜女体ってエロい!」と思い込んで疑わない。なぜなら「女体を客体化する」というプロセスを経た客体としての女体は、すでに疑う余地もない「エロいもの」だから。

ちなみにこの辺りは、記号学的に「事物がmyth(神話)化するプロセス」を描いた Barthes "Myth Today"(1957) や、「映画のスクリーンを通したものがいかに人々に現実のように受け取られるか」を論じる Mulvey "Visual Pleasure and Narrative Cinema" (1975) なども、合わせて読むとより理解が深まるはずです。ちなみにこのバトラーの論文はフッサールやメルロ=ポンティ、ミード等が提唱した現象学理論が基となっています。

セックスも、社会的に構築されたもの

この言説は、正直驚きました。生物的な性別は、男女二元論の域を出ることはないと思い込んでいたからです。私たちは、性別としての男女を確固たる概念として受け入れています。

しかしここでバトラーは「セックス」もすでに文化的な構築物にほかならないといいます。人間の身体を歴史的・文化的な抑圧のもと胸やペニス・膣などを「性的部分」として切り分け、自然の性差が存在するかのようにつくりあげている(=社会的ないとなみ)。

バトラーによると「実際おそらくセックスは、つねにジェンダーなのだ」というように、身体的な性別とはジェンダー・アイデンティティによって規定されたヘテロセクシズム(異性愛主義)を維持するための観念であり、生物的な生殖機能のシステムを維持するための構築物だということです。バトラーは一貫して binary sex、男女の二項対立である性を社会的な「抑圧」だと捉え、批判的な立場をとっています。

バトラーの主張は「真実や本能」としてのジェンダーや、セックスすらも存在しないとした上で、異性愛を含むこのような観念は「人為的につくりだされたものだ」としています。日本でも現代社会において「性」への対話がオープンになってきたり、女性も声を上げやすい環境ができてきているなか、ジェンダーやセックスというのはまだまだ理解の足りない分野であることは確かです。日々の現象をみる中で、このような視座が私たちひとりひとりが生きやすく、より自分らしく人生を送れる一助となることを期待しています。