ジェンダーと自由
この国では、最新SNSアプリ「ジェンドール」が、個人の性自認を毎日自動的に割り当てる。
男か女か、あるいはその他か——。
星座占いのように、ひらひらと舞うように。
SNSを開けば、朝の光のようにきらめく投稿がタイムラインを埋め尽くす。「おはよう、今日は○○になりました!」そんな日常がZ世代たちの間では当たり前になっている。
「今日はどんな自分になれるのか?」という期待感は、まるで贈り物を開ける瞬間のようだ。
政府もこれを奨励した。「ジェンダーという重荷を外して、自由に生きよう」という美辞麗句を掲げて。
戸籍や書類から、もはや固定された性別という項目は消えて久しい。それは、新たな時代の象徴として、希望と不安を同時に抱かせるものだった。
最初のうちは、わたしもノリに乗っていた。
メイクやファッションを即日切り替えて、フォロワー数もあっという間に急増。
新しい自分を発見するたびに、周りの反応が楽しくて仕方なかった。
たしかに、「いろんな自分」になれるのは楽しかった。それは、夢を見るような体験だった。自分自身がどこかで作り変えられていく感覚に、わたしは酔いしれていたのだと思う。
でも、ある朝、ふと思った。
「今日は“自分”のままでいたい」
何かが心に引っかかり、アプリをオフにしてみた。その選択が、これほど大きな影響を及ぼすとは思ってもみなかった。
すると、タイムラインにはこんな声があふれ始めた。
「未設定は危険!」
「バックレるなんて卑怯だ!」
さらに、数時間後には通知が次々と届き始めた。
「フォロー外しました」「社会性に欠けているね」——まるでわたしが何か悪いことをしたかのようだった。
何十件もの通報が届き、翌日には行政からの『是正通知』まで届いた。
その通知文の堅苦しさに、わたしは少しだけ笑ってしまった。でも、心のどこかで引き返したくない気持ちもあった。
それでもオフのまま過ごしてみた。
すると、なぜか周囲の姿がぼやけて見える。
街を歩いていても、すれ違う人たちの顔が曖昧に感じられた。スマホから届く投稿はどれも、「今日は楽しい」「今日も素敵だ」で埋め尽くされているのに、どこか空虚だった。
気づけば、わたしは透明になっていた。
SNS上で、“性”が存在しない者は、その場から消えていく運命らしい。
指先が薄く透けていくのを感じる。
誰もわたしに気づかない。
けれど、自分の中に芽生えた静かな感覚——それだけは確かに本物だった。
どこか遠くで笑い声が聞こえた気がした。
それは、まるで新しい風のようで、
まるで、本当の自由を見つけたかのように——。