【小説】薔薇の咲く庭
お母さんは、どこに行ったんだろう。気が付いた時にはもう、見当たらなかった。
髪を結って、白い前掛けをして、お勝手に立つお母さんは、いつもふんわりと、いい匂いがする。それはお母さんの匂いというよりも、だし汁や玉子焼きなんかの、私が好きな、美味しそうな匂いだったのかも知れない。ちょっと甘くて、切なくて、じんわりと涙が出てくるような、そんな匂い。
窓の向こうに薔薇の花が咲いている。赤、ピンク、黄色、白……たくさんの薔薇。もっと近くに行って見たいけれど、昨夜の雨でぬかるんでいるから、今日は庭には出られないって。
そう話していたのは、お母さん……?
いいえ。知らない人。
眼鏡を掛けた、体の大きな、私の知らない女の人。
私は急に不安になって、お母さーんて、声を上げる。いつもなら、はーい、ここにいますよー、てすぐに返事があるのに、どうしてだろう、今日は何も聞こえない。
お母さーん、お母さーん、と呼んでるうちに、どんどん悲しくなってきて、どんどん苦しくなってきて、胸がきゅうっとなる。
「……さん、……さん、わかる? ……さん、聞こえてますか?」
眼鏡を掛けた、体の大きな女の人が、私の手を取って顔を覗き込んだ。
「私、鈴木です! ヘルパーの、鈴木ですよ!」
耳元で大きな声を出すから、驚いて手を引っ込めてしまった。……怖い。知らない人。
「……ごめんなさいね。今日はちょっと、調子が悪いみたいで……」
後ろから声が聞こえて振り向くと、リビングに続くドアにもたれるようにして、お母さんが立っていた。
「やっぱり、雨だと調子が悪いのかしら」
「……うーん、どうなんでしょうねぇ……」
「今日は、段々晴れるって予報だったけど……」
お母さんは、眼鏡の女の人と知り合いみたい。二人とも、ちょっと困った顔をしている。
お母さんが足早に、私の部屋に入って来た。そして私を通り越して、庭へ出る窓を開けた。ふんわりと、湿気交じりの風が流れ込む。
「ごめんね。やっぱり今日は出られない。夕べ結構、降ったからね」
お母さんはそう言うと、私の前にしゃがみ込んだ。
「雨は上がってるんだけどね。車椅子の車輪が沈んで、動けなくなっちゃうの。薔薇のお世話は、また今度にしよう」
と見ると、目の前に、娘の裕子がいた。
車椅子の背もたれに挟んだクッションを、よいしょっと直してから、赤いチェックの膝掛けを手早く引き上げる。どちらもすぐにズレてしまうのだ。さっきまで心地良かった風が、少しひんやりとしてきた。
「……そう、残念ね」
私がそう言うと、
「お母さん、ご自慢の薔薇だもんねぇ」
と、裕子の顔に笑みが浮かんだ。
窓を閉めると、部屋の空気がふっと重くなる。ヘルパーの鈴木さんと何やら相談して、それじゃ、よろしくお願いします、と裕子は出かけて行った。
まだ幼かった由香を連れて、裕子がこの家に帰ってきた日も、今日と同じように、たくさんの薔薇の花が咲いていた。夫婦の間に何があったのか、本当のところは本人たちにしかわからない。ただ、父親に会えなくなってしまった由香のことが不憫で、あの頃はまだ元気だった夫が、随分と無理をして相手をしてやっていた。
「あちらの部屋から掃除をはじめますから、何かあったら声をかけてくださいね」
と鈴木さんが、耳元に口を寄せて大きな声で言う。私は小さく頷いてから、車椅子を動かして窓辺に寄る。虫のついた葉や、散ってしまった花びらが気になって仕方ない。
この家を建てた時、裕子は小学生だった。猫の額ほどの庭だったけれど、私は憧れのイングリッシュガーデンみたいにしたくて、園芸を一から勉強したのだ。何種類もの薔薇が咲き競う、私の自慢の庭。裕子が成人し、結婚し、由香が生まれ、夫が倒れ、やがて帰らぬ人となり……。長いようで、あっという間のことだった。
あれ?
お母さんは、どこに行ったんだろう。
髪を結って、白い前掛けをして、お勝手に立っていたはずなのに。
「お掃除、終わりましたよぉ! 何か他に、ご用は、ありますかぁ?」
眼鏡を掛けた、体の大きな女の人が叫んでいる。そんなに大きな声を出さないで。……怖い。
「……あぁ、また、わかんなくなっちゃったかな」
そう言って、私の顔と壁の時計とを交互に見ている。お母さんはどこだろう。胸がきゅうっとなって、今すぐどこかに逃げ出したくなる。
その時、玄関のドアが開いて、ただいま、と子供の声がした。車椅子を動かしてそぉっと覗くと、ジャージ姿でリュックを背負って、仏頂面した少女がいる。あれは、裕子……? 私はホッとして、この怖い女の人から逃げるようにして声を上げた。
「裕子、知らない人が家にいるの。どうしよう……」
少女はニコリともせずに、まっすぐに私のところへ来た。
「……おばあちゃん、私は、由香! 裕子は、お母さん! で、今はたぶん仕事! この人は、ヘルパーの鈴木さん!」
怒ったように、そう言うと、背中を向けて行ってしまった。プンと青い草の匂いがした。
「それじゃあ、私は、これで失礼しますね。次回はお庭に出て、薔薇のお世話をしましょうね、吉田さん!」
鈴木さんはそう言うと、大きな体を揺するようにして部屋を出て行った。
窓の外は、すっかり晴れていた。薔薇の花は、とても生き生きとしている。虫のついた葉を取って、散ってしまった花びらを片付けなきゃ……。自慢の庭を眺めているうちに、何だか眠くなってきた。赤、ピンク、黄色、白……たくさんの薔薇を順に数えてから、私は、ゆっくりと目を閉じた。
了
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