俱(とも)に
その昔、「活字中毒」なんて言葉があったけれど、私は自分のことを長い間、そう信じて疑わなかった。
家を出る時には、財布や鍵よりもまず、三冊ばかりの本を鞄に入れる。
それは例えば、読みかけのビジネス書だったり、仕事相手に話を合わせるために選んだ流行りの小説だったり。
何度も読み返している、お守りみたいな文庫本も忘れずに。
移動の電車やバスの中で。
空き時間や隙間時間に。
何なら、一人で食事をとりながら。
いつでもどこでも、本は私の傍にあった。
そんな私が、本を(嫌悪して)「読むこと」を止め、小説を(憎悪して)「書くこと」を棄ててから、思えば長い年月が過ぎていた。
私が note を知ったのは、ある日の新聞記事からだった。
あの吉本ばななが、インタビュー記事の中で
「近頃では、本を出したいと思っても、そう簡単に出すことができない」
と語っていたのだ。
びっくりした。
私たちの世代からすれば、「吉本ばなな」は超ビッグネーム。その鮮やかなデビューから、ヒット作を連発していた頃をよく覚えている。
本が読まれなくなったと言われて久しいけれど、幾人かの流行作家だけは別で、その別枠に「吉本ばなな」も当然入っていると、私は信じていた。
その彼女ですら、
「簡単には出版できないし、出しても生活が保障されるほどの収入には結び付かない」
のだと言う。
そんな彼女が縁あってはじめたのが、note だったそう。
メンバーシップで有料記事を配信し、そのおかげで毎月のまとまった収入が見込めるようになり、それによって逆に、生活を気にせず書きたいものを書けるようになったのだ、と言う。
私は興味本位で、早速 note をダウンロードし、アカウントを作った。
そうだ。
エッセイを書こう。
厳重に匿名性を保った上で、辛かった過去、苦しい現在、こうありたいと願う未来を、書いて手放そう。
回復へは作業療法が有効だと、昔読んだ心理学の本にも書いてあったし。
私はとても注意深く、過去の深い痛手には蓋をして、「小説」のジャンルには決して立ち入らないように気を付けながら、そろりそろりと note の世界に入った。
……ところが私は、広大な note の街で「俳句」のジャンルに迷い込み、「詩」のジャンルに感銘を受け、「エッセイ」のジャンルをさ迷った挙句に、その奥深さを思い知らされる。
フォローしている方々がタイムラインに並ぶと、私は、親しい友人に会うかのようにいそいそと読みに行く。
どれもこれも、面白くて素晴らしい。
笑ったり、泣いたり、喜んだり、悲しんだり、すっかり感情移入して、わくわくと note を満喫しているうちに、ある日私はうっかりと、ある方が書いた「小説」を読んでしまった。
「小説」
「小説」
「小説」!!!
……結局、私は帰ってきてしまった。
この罪深い、底なし沼の、それでいて清らかな、人を平気で惑わして、たぶらかす世界に。
ものすごく久しぶりに、短編小説を書いてみたら、何となくそれらしい形になった。幾人かが褒めてくださった。ものすごく嬉しい。
ふと思いついて、連作にしてみた。すると登場人物が、勝手に動き出す。
この人と、この人とが、実は同じ世界線にいました——て、あれ。何だか楽しい。
やがて、物語と物語とが、くっついたり離れたりしながら、ギューッと閉じていた創造の扉をこじ開けていく。
遠い昔に書きはじめたものの、自分の未熟さゆえに未完のままで放置した、あの物語が、ゆっくりと動き出す。
ひょっとして私は、あの物語を完結するために note に来たのではないか。
いや、大袈裟に言うなら、あの物語を書くために、今日まで生きてきたのかも知れない。
妄想が妄想を呼び、一方で逡巡する。
「長編小説の連載は読まれない」と、たくさんの方が書いておられる。
そうだろうな。
ましてや私が書く小説には、呪術師も死神も出てこないし、生まれ変わったら〇〇に転生したりもしない。
どちらかというと古びていて、共感を得られにくい世界観だろう。
全然、スキがつかないかも知れない。
重くて暗くて鬱陶しくて、だーれも読んでくれないかも——。
それでも、書きたいのか?
私は、私にじっくりと聞いてみる。
その時、天使が舞い降りた。
ケラケラと快活に、よく笑う天使だ。
「……あんまり数字、見ないほうがいいと思うんですよね」
「読まれなくたっていいの。自分の世界だし」
「自分の世界が楽しければ、私は明日も楽しく生きていけるし」
天使は、私が忘れかけていたことを鮮やかに言い切ってくれる。
清々しい。
ほんと、その通りだと思う。
今はまだ力不足で完成することができないかもしれない。
けれども、じっくりと筋力を鍛えて、思いを煮詰めて、いつかきっと。
いつか、書きはじめる私の「物語」を、あなたは読んでくれるだろうか。