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【小説】Blue
「……でね、よーいドンと同時に、ゆっくり歩き出したの……」
「えっ? スタートで転んだとかじゃなくて?」
「違うの。わざと」
「えっー。何それ。徒競走でしょ?」
「そう。しかも六年生。ちっちゃい子なら、ともかくねぇ……」
パートさんたちの会話に、つい聞き耳を立ててしまった。
店長と違って私は、多少の私語に目くじらを立てたりはしない。むしろ「推し」の話なんかだと、できるだけ積極的に会話に加わろうとする。
良好な人間関係を作って、円滑な職場環境を整えることも、部門チーフの大切な仕事だ。
へぇー。やるな、小学生。今どき珍しく、気骨のある子もいるんだな、なんて思う。
「それって、大人たちへの抗議行動ってヤツなんですかね?」
私がそう言うと、大森さんの手が一瞬、止まった。
「……どうなんでしょうねぇ? その子、普段は不登校らしいって、誰かが言ってましたけど」
大森さんのトーンは低い。あれ? ちょっと外したかな。
「なんかちょっと、かっこいいですよね」
と私は気にせず言って、はははと無責任に笑う。
「でもチーフ、親御さんは真っ青でしたよ? そりゃキツイですよ。こういう目立ち方は。ねぇ?」
同意を求められた佐々木さんも、神妙な面持ちで頷いていた。
パートの大森さんは小学生二人のママさんで、話を聞いている佐々木さんは確か、中学生の娘さんがいたはずだ。
もしも我が子なら……と考える大森さんたちと独身の私とでは、決定的に立場が違う。
私はどうも、子どもの側に自分を置いて考える癖が抜けないようだ。もうアラサーだというのに。
大人たちへ反旗を翻して、颯爽と歩く六年生。何なら教師のマイクを奪い取り、全校生徒に向かって演説の一つもしてほしい……って、そんなドラマみたいな話じゃないのかもしれない。「普段は不登校」という一言が気にかかった。
見知らぬ小学生の話から私は、なぜか不意に、あの「白馬の森」を思い浮かべた。
森の中に佇む一頭の白い馬。少し首を傾けた立ち姿がどこか不安そうで、まだ成熟しきっていない仔馬のようだ。
鬱蒼とした青い森に白く浮かび上がる、存在感のある木々と一頭の仔馬。私は、こんな青い色を、いつかどこかで見たような気がした。
それは夜明け前の、明るくなりはじめた空の色だったかもしれない。
街の明かりが消えて、薄っすらと空が明るくなる頃、私はようやく安心して眠ることができた。幼い頃からずっと、とても浅い眠りだった。
子どもは元気に遊んでぐっすり眠るもの、なんて、大人たちの都合のいい幻想だ。誰も彼もが外を駆け回って、遊んでいた昭和じゃないんだから。
平成の小学生だった私に、不登校という選択肢はなかった。もちろん運動会の徒競走で、わざとゆっくり歩く、なんてことも思いつかなかった。
嫌なことがあっても、行きたくなくても、浅い眠りから無理やり引き剝がすように体を起こして、元気いっぱいの振りをして登校するしかなかった。
あの頃の私は、父母へも、先生へも、そして自分の心にさえも嘘ばっかりついていた。
「来週は、帰って来るのよね?」
と母が、遠慮がちに聞く。
「うん。もちろん帰るよ!」
私はできるだけ、明るい声で答える。
母との距離感をうまく掴めないまま大人になった私は、今でも少し、過剰に「子ども」であろうとしてしまう。
心の中に、あの青い森が広がって、じっとこちらを見つめる白い仔馬と目が合ったような気がした。
「今度ね、新店舗に異動が決まったの」
久しぶりの電話で私は、前から準備していたセリフのように、少し早口で報告した。
「ここで実績上げられたら、次の昇格試験を受けられるんだって。合格したら副店長だよ!」
……たら、……たら、と少しずつ、声のトーンが上がっていく。
「二十代で副店長になった人は、まだほんの数人しかいないんだよ! 凄くない?」
凄いねぇ、と言いながら母は、
「体にだけは気をつけてねぇ」
と、そればかり繰り返す。
娘の昇進よりも、無理をして病気にならないか不安で仕方ないらしい。
「大丈夫! 体、壊したことないでしょ? うん。ちゃんと食べてるよ。社割で買えるからね」
電話の最後はいつも同じだ。
「気をつけてねぇ」と「大丈夫!」が、何度も往復してからじゃないと終われない。
私は、この仕事が好きなんだ思う。
サービスカウンターに立つと、必ず声をかけてくれるお客様がいる。
断っても断ってもお菓子をくれる人。
旅の土産や、手作りの手芸品をくれる人。
「あなたの顔を見に来るのよ」と笑う人。
時には、お嫁さんの愚痴を聞かされたり、息子さんやお孫さんを紹介されそうになったり。
みんな、誰かと私を重ねて見いるんだろうな。本当はもっと話したい、大切な誰かの代わりに、私は優しくされている。
大学を卒業後、私は誰も知る人のいない街で働きはじめて、誰のことも知らずに暮らしはじめた。だけど今、私には、この街にたくさんの知り合いがいる。
姉の加奈子さんは、絵を描くことに特別な才能があった。
姉妹だというのに私には、これっぽっちもその才能がない。不思議なことに、私が描いたライオンは金魚に見えるそうだし、素敵な家を描いたつもりなのに、なぜか自動車に見えるらしい。見た人はみんな、苦笑いするしかない。
当たり前だけど、私は加奈子さんにはなれない。だから、加奈子さんの分も頑張って……なんて、気負わなくいいんだってことに、ようやくこの年になって気付いた。
加奈子さんの亡くなった年齢を、私はとうに過ぎた。
来週、加奈子さんの十三回忌法要が執り行われる。
どうか、一日だけでも綺麗な青空が広がりますように。
窓から見上げた空は、加奈子さんが眠っている、遠い故郷の空に続いている。
私は、大きく一つ深呼吸した。
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