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【小説】Make Over

 降りしきる雨の中、無料送迎バスは、園内のバス停へ時刻通りにやって来た。今日はお彼岸の中日だけど、霊園内の人影はまばらだった。バス停で待っていたのは、私と同年代くらいの女性が二人と、老夫婦が一組。朝の天気予報通り、雨は降ったり止んだりしている。

 市街地から少し離れた「やすらぎ霊園」は、分譲がはじまった1980年代には、一部区画で抽選になるほどの人気だった。かつてはお墓参りに向かう車が列をなしていたし、いつ来ても家族連れで賑わっていたけれど、今はもうその面影はない。無縁墓がめっきりと増え、墓石が雑草に覆われている区画もあちらこちらに目立つ。

 最寄り駅から、一時間に一本の路線バスに揺られて約三十分。バス停からは急な上り坂が続いて、若い人でも息が上がる。だから、お盆と春、秋のお彼岸の期間にだけ運行される無料送迎バスは、私のような車のない中高年にとっては、とてもありがたい。

 バスに乗り込み、濡れた傘を足元に置いてから、さっき墓前でバッグに雑に突っ込んだお供えを取り出す。形だけ供えて手を合わせ、すぐに仕舞ったけれど、それでもぐっしょりと濡れて包装紙がふやけていた。来る途中に駅前のスーパーで買った、パック入りのおはぎ。あんこときな粉が、それぞれ二個づつ入っている。

「生ものですので本日中にお召し上がりください」
 と印刷された、蓋を留めているシールをべりりと剥がしてパックを開け、素手でつまんでかじりつく。後から乗り込んできた初老の男性と目が合ったけれど、気にしない。指も、口の周りもきな粉だらけになって、それでも構わずに、二口、三口とかじりつく。
 おいしい。
 そう言えば、朝から何も食べてなかったんだ。

 こんなふうに、お腹を空かせて素手でつまんで、おはぎを食べたことがあったな。
 あれはもう三十年近く前の、結婚披露宴の日のことだった。

 あの頃どういう訳か、披露宴の間中、新婦は目の前の料理に手をつけてはならない、という暗黙のルールがあった。
「人前でパクパク食べるなんて、はしたないことはしないように!」
 と披露宴がはじまる前、お義母かあさんから、はっきりと釘を刺されたことを思い出す。
 思えばこの結婚は、そもそもの最初から、納得のいかないことだらけだったのだ。

 披露宴の後、私が朝から何も口にしていないことを知って、伯母ちゃんがそっと控室におはぎを持ってきてくれた。

「お腹空いたでしょう。さぁさ、食べんさい。ゆんべ、うちで作りよったけぇね。きな粉のおはぎ、由利ちゃんの好物やったでしょう」

 伯母ちゃんは、お母さんの一番上のお姉さんで、考えてみればあの時は、今の私と同じくらいの年齢だったはずだ。それなのに記憶の中の伯母ちゃんは、なぜだかとても、おばあちゃんぽい。
 前夜、私の好物のおはぎを準備し、結婚式に参列するために朝早く、家を出て来てくれたのだ。伯母ちゃんは誰よりも、私の結婚を心から祝福してくれていた。

「……返品、交換のお申し出には一切、応じられません。生涯に渡りまして、末永くご愛用ください。なお、花嫁は生ものでございます。何卒、本日中にお召し上がりくださいますよう、お願い申し上げます」

 披露宴会場に響いていた、くすくす笑いが爆笑に代わる。
 スピーチを終えた従兄弟いとこの、似合わない礼服姿とドヤ顔に、私もつい笑みがこぼれてしまう。少しだけ高くなっている新郎新婦席から見渡すと、一人一人の表情までがよく見えた。
 今なら何かとアウトな言い回しだけど、平成のはじめは誰も、そんなこと疑問に思わなかった。

「……別れてほしい」
 唐突に、夫がそう切り出したのは、結婚して十年が過ぎた頃の、いつもと変わらない夕食の時だった。私はその日、少し体が重くて、怠くて、仕事帰りにスーパーで買ったお惣菜を並べて食卓を整えた。

「もう、大袈裟ねぇ。ちょっと手抜きしたけど、明日はちゃんと作るわよ」
 笑いかける私の目を、夫は真っ直ぐに見ながら続ける。

「……子どもができたんだ」
 さすがに箸が止まる。
「……子ども? ……誰に?」
 夫は目を逸らせて、わかりやすく俯いた。

 女性がいるんじゃないか、と疑ったことは何度もあった。確証があったわけじゃないけれど、長年一緒に暮らしていれば、勘のようなものが働くのだ。だけど私は、これまでずっと、見て見ぬふりをしてきた。
 いい年をして、年老いた両親を頼ることはできない。それに今さら、一人で生きて行くなんて怖ろしくて、考えたくもない。

「イヤ! 絶対イヤ! 子ども? 何言ってんの? 離婚なんてしない!」
 私は席を立って、そのままバスルームに閉じこもり鍵をかけた。
 怖くて、悲しみよりも、怒りよりも、怖くて怖くてならなかった。激しい動悸がして、吐き気がする。地響きのような呻き声が漏れて、私はようやく自分が泣いていることに気付いた。
 夫が激しくドアを叩いている。私は鍵を閉めたまま、バスルームに蹲って耳を塞ぎ続けた——。 

 バスの窓を打ち付ける雨が、また少し激しくなったようだ。
 慌ただしいお墓参りだったけれど、離婚届を提出したことを、今日ようやく両親の墓前で報告することができた。
 長い家庭内別居から、さらに長い別居生活を経て、私はやっと自由になることを決めたのだ。

 二つ目のおはぎをつまんで、ためらわずにかじりつく。きな粉がパラパラこぼれて、洋服に黄色い点々がついても構わずに、二口、三口とかじりつく。
 おいしい。
 伯母ちゃん手作りのおはぎには敵わないけれど。 

 久しぶりに、伯母ちゃんを訪ねてみようかな。顔を見たら、泣いてしまうだろうか。いや、泣いたって、その後はきっと笑顔になれる。そんな気がする。雨上がりの空に、大きな虹が出るみたいに。

 雨はガラス窓を、叩きつけるように降っている。前方に、駅前通りが見えてきた。バスはゆっくりと、カーブを曲がった。



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