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さよーならまたいつか!

遠い昔、二十代の頃の話である。
私はどうしても「作家」というものになりたかった。
そのためには、新人賞を受賞してデビューすることしか思いつかなくて、いくつもの文芸雑誌に応募していた。

当時の私は、どうすれば最終選考に残れるのか、受賞するにはどんなふうに書けばいいのか、そんなことばかり考えていた。
二次選考や三次選考を通過しただけでは意味がない。最終選考の5~6人に残らなければ講評を書いてもらえることもなく、なぜ選ばれなかったのかのヒントすら得られない。

だから私は、これまでの受賞作を精読し、その年の審査員の選評を熟読して研究を重ね、何度も何度も自作の推敲を繰り返した。
「好きだから書く」とか「本当に書きたいものを書く」ことからは程遠く、とにかく結果がすべてだ、と私は固く信じていた。

ところが
「はじめて書いた小説が、新人賞と同時に芥川賞を受賞!」
なんて人がもてはやされ、はにかんだ笑顔が受賞作とともに掲載される。
その人の何が良くて、私のどこが悪かったのか、どれだけ読み比べても、考えてもわからない。

それは、恐ろしいまでの苦行だった。
結局私は、うつ病の発症とともに仕事も、小説も、何もかも失くすことになった。


あれから長い年月が流れた。
もう一生、書くことはないと思っていた私が数年前、 note の企画で短い物語を書いた。すると三十年ぶりとは思えないほどに、案外すらすらと、楽しんで書くことができた。
そのことに一番、驚いたのは自分自身だった。

それは今のスタンダードからは遠い、どこか時代遅れな匂いのする物語だったと思う。それでも読んでくれる人がいて、お世辞かも知れないけれど、何人かが褒めてくれた。

結局、書くことで救われる。
私はそう、確信した。


「人生を諦める」とか「降りる」というと、どこかマイナスなイメージになってしまう。
けれども常に前のめりになって、傾斜45度で突き進んでいくばかりでは、人生はあまりにも過酷だし、誰だって疲れ果ててしまう。

「身の丈を知る」「ありのままを受け入れる」と言い換えれば、途端にプラスのイメージになるから不思議だ。

ゆるく生きてもいいんだ。
頑張らなくてもいいんだ。

そう言えるまでに私は、実に多くのものを失い、泣いて、傷付いてきた。
そのことも含めて、自分の人生を肯定しよう。
私はこれまで、この note で、繰り返しそう書いてきた。


そんなある日、こんな企画に出会った。

「なぜ、私は書くのか」というタイトルは、まさに今、私が書こうとしていたことだ。私は今一度、書くことの原点に立つために、自分に問い直しながら懸命に書いた。

ところが私は、大きな勘違いをしていたことを知る。

私の「なぜ、私は書くのか」というエッセイは、コンテストに応募して、見ず知らずの審査員に読んでもらえるような水準の作品ではなかったのだ。


書かれている「落とした理由」の中で、当てはまりそうなのは

・読むからには、「得をしたい」が、何の得もなかった
・初対面の人にいうことではない
・クリックする、理由が、ない
・「だから、何?」に答えられないなら、その一行は書くべではない

……盲点だった。
これまで、こういう視点で考えて書いたことはなかった。


そして何もこれは、今回の話に限ったことではない。
遡って三十年前の投稿作品だって、そうだったのかも知れない。

あの頃、(小説とエッセイの違いはあるとしても)「何かが足りない」と言われ続けた何かとは、こういうことだったのではないか。
功を急いてばかりで、読む人のことを考えたことが一度でもあっただろうか。

三十年ぶりの答え合わせに、背中がヒヤリとする。


私は今 note で、思いつくままにエッセイを書き、気まぐれに短編連作の小説を書き足し、ごく稀に俳句を発表している。
それは私にとって、ささやかだけれど、とても充実した note の時間だ。
今ここに、書ける場所があって、読んでくれる人がいて、本当に嬉しい。

「なぜ、私は書くのか」という問いに、書き切れなかった思いがある。
それは

ゆるく生きてもいいんだ。
頑張らなくてもいいんだ。

と言い続けたい、ということ。

今、辛くても必死で頑張っている人たちへ。
頑張りたくても頑張れなくて、自分を責めそうになっている人たちへ。
そして何より、自分自身のために、

何の得にもならない文章を、私はやっぱり書き続ける。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。もしも気に入っていただけたなら、お気軽に「スキ」してくださると嬉しいです。ものすごく元気が出ます。