桜桃を溢るるほどに禅林寺
二十歳を前にして「太宰治」に心酔してしまったことは、今から思えば、若気の至りとしか言いようがない。
作家の、あまりにも不道徳な私生活。それを逆手に取ったような、才能あふれる文章表現の秀逸さ。「破滅型」とも「無頼派」とも呼ばれ、戦前や戦後すぐの作家としては、決して珍しくはなかった。
とはいえ、どの作品にも通底する、あまりにも濃密なナルシシズムに、嫌悪感を露わにする人も多かった。
私が東京三鷹の禅林寺に墓参したのは、二十代最後の年だった。
季節は違ったけれど、それでも墓前には、たくさんの花が供えられていた。
わくわくしながら映画館に入り、やがて照明が落とされ、本編がはじまる。するとほんの少し見たところで、あ、この作品はちっとも面白くないな、これは酷いB級作品じゃないか、と気付いてしまう。
席を立とうか。立ち上がって、来た道を戻ってしまおうか。
いや、でも、もしかすると、ここから俄然、面白い展開が待っているのかも知れない。
もう少し。あと少し。
そうして最後まで、席を立たずに見続けることが、生きて行くということ。
私はそんなふうに解釈し、そうして大層、このアフォリズムに感動した。
その頃の私は「人生」という映画に早くもうんざりし、今風に言えば「ガチャに外れたこと」をはっきりと自覚して、とても投げやりな気持ちになっていたのだ。
その後、幸か不幸か私の人生には、まったく思いもしなかった展開が訪れ、登場人物が増えて、俄然、興味深いものとなった。
あの時、席を立ってしまわなくて良かった。
太宰治が旅立った年齢を、私は随分前に通り過ぎた。
実感として言うなら、その後の日々の方がとてもスリリングで、ドキドキハラハラ、非常に見応えのある展開だったと言える。
映画はまだ終わらない。
最後の日に「あー、面白かった!」と微笑んで、ゆっくりと瞼を閉じたい。
それが、私のささやかな願いである。
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