【小説】The dirty night
午前二時。
公園に人影はない。
家に居たって、外に出たって、大した違いはない。けど、息が吸えるだけ、公園のがマシ。そのぐらい。そのぐらいのこと。
もしも職質されたら、
「受験勉強に疲れちゃって。ちょっと息抜きしてました。もう帰ります」
……嘘だけどね。
受験なんかしねーし。学校行ってねーし。何なら、部屋から出ねーし。
雨上がりの公園は、葉っぱのにおいと土のにおいがして、何だかやけに青臭い。そこへ、薄っすら下水のにおいが混じった重たい風が、ゆるゆると吹いてくる。うぇっ。
前の道を、ごくたまに車のライトが過ぎる。みんな急いでるんだな。そんなに急いで帰りたいのかな。あ、これから出かける人もいるかもね。
誰にだって事情がある。他人から見たらわからない、いろんな事情がある。もちろん俺だって。
親父が無類のサッカー好きで、最初の子供の俺に、付けた名前が「秀人」。キラキラネームかっつーの。三歳下の弟は「賢人」。ほとんど呪い。秀でた人と、賢い人になれってか。
赤ん坊の頃からボール持たされて、ずっと転がしてきた。リトルクラブは五歳からだけど、特別に四歳で入れてもらって、小学生の兄ちゃんたちに交じってボール蹴って。楽しかったのは、そこまで。後は地獄。いや、マジ地獄。
……通り魔って、どんな気分かな。
ただのバカじゃん、て思ってたけど、そうなのかな? 包丁とかナイフとか。知らない人を次々に、とか。
でもあれって、子ども、女の子、年寄りなんかの、弱そうな人ばっか狙ってんじゃん。やっぱ、卑怯。ただのバカで、ただの卑怯者。
……深夜の住宅で、両親を刃物でメッタ差し——長男が何らかの事情を知っているものと見て話を聞いています。
ニュースでそんなの見るたびに、
「長男————っ!」て心で叫ぶ。
駄目だよ、長男。弟どうすんの。いるかどうか知らんけど。妹かも知れんけど。
そんなの、新しい地獄を作るだけ。何の解決にもならない。そんなことで、未来が開けたりなんかしない。
スポーツ推薦の特待生で入った学校は、故障したら終わり。高校サッカー優勝候補でも、鉄壁のスタメンでも、ドクターストップで終わり。
赤ん坊の時から、ボール転がすしか能がなかった俺は、文字通り詰んだ。
「このままサッカーを続けると、将来、歩けなくなるかも知れません」
……って、知るか。あー詰んだ。
公園を抜ける風が、少し冷たくなってきた。風向きが変わって、下水のにおいが消えた。その代わり、薄っすらと潮の香りがする……ような気がする。海なんて近くないのに。車で一時間かかるのに。
夜が明けるには、まだ時間があるけど、辺りは真っ暗だけど、こうやってちょっとずつ、朝になる準備をしてんのかな。
えっ?
視界を、何かが動いた。
午前二時の、誰もいない公園だってば。
えっ? 何? 何?
……猫?
街灯がかすかに当たって、シルエットが浮かび上がる。いや、違う。
……狸? まさか。 イタチ? ハクビシン?
よくわかんないけど、そんなサイズ感。
距離はたぶん、七~八メートルくらいかな。ピタッと止まって動かない。
アイツがキーパーなら、狙うのは左上隅だな。
スタンドの吹奏楽部がノッている。
俺は、ありもしないボールに集中して、思いっきり蹴った。ズバンッと音が聞えて、ゴールネットに刺さる。
一瞬の静けさ。一気に弾ける歓声。
ウォォッ―――ー!って、地響きみたいな歓声。
「藤本——っ! 決めましたぁ! 二年生のセンターフォワード藤本、難しいコースを見事に決めましたぁ!」
がなり立てる場内アナウンス。ハイタッチ、ハイタッチ、ハイタッチ。
キーパー野郎は、もういなかった。一瞬で、植え込みにジャンプした。
笑いがこみ上げてくる。
何だ、アイツ。どっから来た? 山なんて、海よりももっと遠いのに。こんな街なかの公園なのに。
車が一台、スピードを上げて通り過ぎた。夜明けには、まだ時間がある。強い風が吹いた。
俺は一人で、くすくす笑ってる。
あ、俺、笑ってる。
……とりあえず、もう一日、生きてみるか。
公園の入り口に停めたチャリに跨ると、風を追い越すようにゆっくりと、俺はペダルを踏み込んだ。
了