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ファイト!

四十歳を、少し過ぎた頃のことだった。
ある日いつもの道を歩いていて、私は唐突に「……あ、終わったんだ」と気付いた。
それは「終わってしまった……」というような悲しみとは真逆の、実に晴れ晴れとした歓喜の感情だった。

例えるならば、じめじめとした梅雨空が晴れていくような、しつこい片頭痛がとれたような、あるいは濁って淀んだ視界がクリアに磨かれて、目の前がパーッと開けたような、そんな感じ。

大したことではない。
向こうから歩いてきた男性が、私に対して何の注意も払わず、かけらも視界に入れることなく、無表情ですれ違って行った。
ただ、それだけのことだった。

私はその瞬間、自分が、女性として意識されない規格外の生き物=おばさんに進化したのだと悟った。
本当はもっと以前から、誰からも、女性として意識されていなかったのかも知れない。ただ、何にでも腑に落ちる瞬間というものがあるように、その日その時に私は、ハッと気付いたのだ。


思春期に入る頃から女性たちは、ただ女性であるというだけで、とにかく「気をつけなさい」と口酸っぱく言われるようになる。

昭和の価値観では、痴漢や性犯罪に巻き込まれるのは常に女性(男性の被害は驚くほど軽視されていた)であり、そのような被害に合う女性の方にこそ落ち度があるのだ、と大人たちは口を揃えた。

暗い夜道を一人で歩く。
露出の多い服装で出歩く。
むやみに繁華街に出る。
混雑した公共交通機関を利用する。

これらはすべて女性側の落ち度とされ、被害にあっても文句は言えない、というのが昭和の大まかな社会通念だった。

そんな馬鹿な! と思いつつも、圧倒的な同調圧力に対して、机上の理念は無力だ。現実的な防衛策は必要だし、女性の側も、あからさまな挑発は慎んだほうがいい。
そういう訳で、標的にされ、狙われ、あるいは守られる性であることを無意識に刷り込まれて、私を含む、あの頃の若い女性たちは皆「気をつけて」生きてきたのだと思う。


そんな「気をつけなければならない」期間が終了したのだ。

シミやたるみや白髪などの容赦ない老化と引き換えに私は、自意識過剰な日々の恐怖から解放され、大いなる自由を手に入れた。

それ以前の、二十代の頃の私が特別に、男性の目を引いたという意味ではない。私の容姿は、いたって平凡だったし、流行の髪型やファッションを真似たところで特段、目立つような存在ではなかった。

そんな私ですら、「気をつけて」いなければ、いつ、どこで、どんな被害に合うかわからないし、万一被害に合ったなら、それは大抵、自己責任で片付けられるという世相だったのだ。

すべての女性は知らぬ間に、性のマーケットに陳列され、その美醜によってジャッジされ、価値を計られる。今の時代なら男性もそうだろうけれど、昭和から平成のある時期までは、まだまだ女性が一方的にジャッジされる、そんな時代だった。


わずか三十年ほどのことなのに、思えば社会のあり様は大きく変化し、過去には想像もつかなかった現代を私たちは生きている。
振り返れば、かつて世の中に広く浸透していた常識は、重大な人権侵害となることばかりだ。

それでは現代は、誰もが生きやすい社会へと生まれ変わったのだろうか。

男女平等の理念が浸透してもなお、痴漢、セクハラ、性被害の報道は後を絶たない。
また男性の加害→女性の被害という構図ばかりでなく、女性から男性へ、同性から同性へと、あらゆるパターンが表出している。

今なお、思春期から二十代、三十代の女性は常に(痴漢などの性被害の)危険と隣り合わせだ。何なら巷には、少女や幼女に対しての特殊なマーケットも成立している。
中には、中高年女性をターゲットにしたマニアもいるだろうけれど、より若い者、幼い者への偏愛傾向は揺るがない。


ストレスに満ちた現代人は、常に何かを(誰かを)蹂躙したいという欲求を秘めているのかも知れない。
そうしてそれは、抑圧が多く閉塞感の強い現代社会において、ますます増長し、膨張し続けているとも言える。

もしくは、かつてなら泣き寝入りしていたような事例でも、被害として立件されるようになった、ということなのかも知れない。
顔や実名を出して告発する人も増え、女性の落ち度を咎める風潮は、目に見えて減っていった。

早々に戦線離脱した私とは違い、五十代、六十代になっても変わらず美を追求し、美魔女として自らマーケットに並び続けようとする女性もいる。
実在の異性に背を向けて、二次元のキャラクターやアイドルの推し活に没頭する人も珍しくなくなった。

多様性という真新しい価値観を、私たちはうまく使いこなせているのだろうか。そこに、真の幸福があるのだろうか。

答えはきっと、ずっと後の世になってから明らかにされるのだろう。


永遠の五歳で「良い子のお友だち」だったガチャピンが、すっかり頼れる姉御(?)に成長している。

令和って凄い。


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うみのちえ
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