まっすぐな道
数年前に話題になっていた小説を、最近になって、たまたま手にする機会があった。
『82年生まれ、キム・ジヨン』である。
2016年に韓国で発表されてベストセラーとなり、その後2018年に翻訳出版され、日本でも大きな関心を呼んだ。
また、同じ2016年にドイツで発表された、イスラエルの社会学者によるインタビュー集『母親になって後悔してる』が、2022年に翻訳出版された。
そのショッキングなタイトルに拒絶反応を示す人も少なくなく、肯定的な書評には批判が集まるなど、ひととき物議を醸し話題になった。
私もまた長い間、「女性であること」の理不尽な重圧に、強い生き辛さを感じてきた。
そしてさらに「母親であること」の重すぎる責任に、押しつぶされそうになりながら生きてきた。
けれどもその一方で、「女性であること」によって優遇される機会も少なからずあったし、その恩恵もちゃっかりと享受してきた。
また、私自身が女性であるからこそ母親になることもできたし、かけがえのない子どもたちに出会うこともできた。
だからこそ私は、「母親になったことへの後悔」などという物騒なものを、慎重に心の奥底にしまい込み、誰にも悟られないように過ごしてきたのだと思う。
これは、「子どもを大切に思う気持ち」とは全く別次元の話である。
子どもは大切だし、愛おしく思っていながらも、私がキム・ジヨンの人生に共感し、イスラエルの母親たちに深く頷いてしまうのは何故か。
それは、女性の生き方を限定、固定、強制されることの辛さなのではないだろうか。
動物の本能として、妊娠し、出産すること自体に、大きな喜びがあることは否定しない。
問題は、現代社会の人権意識や男女平等の理念と、女性だけに妊娠、出産、育児が課せられる現実との大きな矛盾にあるのだ。
もしも妊娠や出産が、男女どちらでも任意に選べるなら——。
あるいは人工授精、人工子宮、人工出産と、すべてを生身の体ではなく外注できるなら——。
例えば育児の、大変な部分を全て外注することが前提となり、かわいい、愛しいという甘やかなところだけを享受できるなら——。
それらはとても馬鹿げた妄想だけれど、未来社会で実現すれば、もしかすると、産みたい、育てたいと願う女性がもう少し増えるかも知れない。
妊娠中の辛くて不自由な体は、病気と何ら変わりはない。出産の痛さは瀕死の交通事故レベルだし、後遺症も長く続く。
ましてや新生児の育児をワンオペでこなすことは、ほとんど拷問だ。
女性は皆、生まれながらに母性があり、これらの苦痛をも、喜びをもって自ら進んでこなしている、と決めつけたのは一体誰なのだろう。
そんな枠に填めることで、長い年月の間、得をしてきたのは誰なのだろう。
近年になって少しずつ、女性は声を上げはじめた。そしてまた、従来とは全く異なる考えを持つ男性も、着実に増えはじめている。
女性が、女性という枠に押し込められる前に、男性が、男性という枠に囚われる前に、それぞれが人間として、互いを尊重し合えればいいのに。
そんな未来を、私は切実に願っている。
ところで私は、どうやら「まっすぐ」という言葉が好きらしい。
老嬢の背筋まっすぐ春帽子(俳句幼稚園 2022.3.1)
畦道の轍まっすぐ霜日和(俳句幼稚園 2023.11.20)
目の前の道は、いつだって真っ直ぐだから。(小牧幸助文学賞 2023.11.5)
「まっすぐ」という言葉の持つ響きに、どういう訳か私はとても憧れる。
ステレオタイプな言い方をすれば、真っ直ぐであることは正義だ。
あるいはそれもまた、刷り込まれた価値観であり、思い込みに過ぎないのかも知れないけれど。
それでも私は、背筋をピンと伸ばして、遠くの目標を見据えながら、目の前の道をしっかりと歩いていきたい。
後ろに続く、たくさんの少女や女性が、スキップで追い越していく姿を見送りながら。