黄昏のあんぱんまん
自分で言うのもアレだけれど、私はとても小賢しい中学生だった。嫌味な、と言い換えても過言ではない。
わかりやすい不良などではなく、授業態度も悪くなかったけれど、どこか教師を軽蔑していて物事を斜めから見ているような生徒だった。
だから夏休みの宿題で、読書感想文を書くにあたって私は、課題図書では飽き足らず変化球として、絵本の『あんぱんまん』を選んだのだった。
『あんぱんまん』とひらがな表記の、ごく初期の絵本には、バイキンマンも、ドキンちゃんも、食パンマンも登場しない。
「あんぱんまん」は、砂漠で死にそうな人や、森の中で迷子になった子どものところへ飛んで行って顔を食べさせる。
すっかり顔がなくなった「あんぱんまん」は雷雨の中で墜落するけれど、「ぱんつくりのおじさん」に新しい顔を作ってもらって復活する――。
そんなストーリーだった。
絵本の中に出てくる、一人ぼっちで森に取り残された子ども。
それが私には、とても他人事とは思えず、飛んできて自らの顔をお食べと差し出す「あんぱんまん」は、この上ないヒーローに思えた。
かつて私は、小学校に入学した時に、母から鍵を一本渡されていた。
ところが幼かった私は、鍵を持って出ることをしょっちゅう忘れてしまい、その都度、帰宅してから呆然とした。
そんな日は、なす術もなく玄関前の石段に座って、誰かが帰宅して鍵を開けてくれる瞬間をずっと待ち続けるしかなかった。
やがて近所のあちこちから、夕飯を支度する甘い匂いが漂ってくる。私はいつも、お腹が空いていた。
そのうちに、このまま誰も帰ってこないような気がしはじめる。
私はもう二度と家には入れず、食べることも、眠ることもできないんじゃないか⋯⋯そんな不安に包まれて、いつも胸の奥がきゅっと痛かった。
作者のやなせたかし氏は、絵本のあとがきで、こう語る。
中学生だった私は、卑劣な大人たちに対して、とても腹を立てていた。社会のあらゆる事象は二枚舌で矛盾だらけだし、正直者は常に馬鹿を見る。
当時の私は早熟であるがゆえに、不公平で不平等な世の中に辟易していた。
そんな思春期真っ盛りの心に、「ほんとうの正義」という言葉は、深く深く突き刺さったのだ。
そんな私が長い時を経て、子どもたちと一緒に、あの懐かしいヒーローと再会する。
知らない間に「あんぱんまん」は、「アンパンマン」へと表記が変わり、人懐っこい真ん丸な顔で、たくさんの仲間に囲まれて、華麗にアンパンチを繰り出していた。
アニメ化に伴って登場した主題歌は、幼児向けとは思えないような凄い歌詞だった。
熱い! 熱すぎる!
年齢を経るとともに私は、「⋯⋯まぁ、どうにもならないことだってあるよねぇ」なんてお茶を濁して強かに世渡りする大人になった。
そうして、「ほんとうの正義」なんてどこにもないんだよ、と訳知り顔で言うことで、弱い自分を守る術も身につけた。
いつだって世界では、人と人とが殺し合いをしているし、たくさんの子どもたちが命の危機に瀕するほどに飢えている。
捨て身、献身の心で正義を貫くヒーローが現れたとしても、時代の大きなうねりの中で消費され、抹消されていくのがオチ――。
そんなふうに思っていた。
デジタル化が進んでAIが台頭し、大きく時代は変わったけれど、47年前に書かれたメッセージは、今なお色褪せることなく、私たちの胸に迫る。
パンを分け与える、という行為や、その捨て身の献身からか、「あんぱんまん」とイエス・キリストを重ねて見る人が多いらしい。
「愛」という言葉は、まだまだ日本人には馴染みが少ないかもしれないけれど、「慈しむ」や「大切に思う」と言い換えればわかりやすいだろうか。
そういうことなら、私の中にももちろんある。
夕刻、食事の支度をしはじめる時、私は必ず、離れて暮らす子どもたちのことを想う。
今日は、何を食べたかな。
何か、美味しいもの食べたかな。
今この瞬間も、きっと世界中の国や地域で、たくさんの人たちが、家族や大切な人のために食事を用意しているのだろう。
そして、離れて暮らしている誰かのことを想っているのだろう。
とびきり美味しいものを食べた時には、かつて一緒に食卓を囲んだ日の笑顔を思い出す。
季節の旬を味わった時には、食べさせてあげたい人の顔が浮かぶ。
そうか。
「ほんとうの正義」って、案外そんなに難しいことじゃなくて、一人一人の心の中に、もうすでにあったんだ。