小麦の香りに包まれて。

繭子は パンが好きだ。

大学に入学して すぐに
大学のそばの小さなパン屋さんで
アルバイトをすることにした。

店主が ひとりでパンを焼き
アルバイトの大学生や 主婦が販売を手伝う
こじんまりとしたパン屋だったけれど
店からは いつも パンの香りが漂っていて
近所の人たちや学生たちに
とても愛されているようだった。

学校帰りに寄ろうとして
アルバイト募集の張り紙をみつけた繭子は
『美味しいパン食べ放題』に吸い寄せられ
店に入ると そのまま まっすぐにレジにゆき
「アルバイトをしたいです！」と宣言したのだ。

履歴書も なにも持たずに
いきなりやってきた女の子に
店主のおじさんは 驚きながらも
「あそこの大学の学生さん？」と聞いた。
「はい。一年生です。」と答えると
店の奥の厨房に案内し
「ちょっと待ってて。」と店に戻っていった。

「えー、350円。ありがとうございます。」
「600円です。えー、おつりは400円。はい。」

ぶっきらぼうな店主の声を聞きながら
繭子は 厨房を見回した。
ここでパンたちが産まれているのだ。
客の途切れた隙に奥に来た店主は
「接客は苦手で…いつから来れる？」と
すぐさま繭子を採用してくれた。

ただの普通の「パン好き」だと思っていたけれど
繭子のパンへの愛は急速に高まっていった。

ここ一ヵ月
取り憑かれたように パンのことばかり考えている。

あの香りに包まれると
心の底から幸せな気持ちになる。

小麦の香りの香水があったら 迷わずに買うのに。
四六時中 この香りを嗅いでいたい。
もう中毒である。

授業以外のすべての時間を勤務可能で提出し
勤務が終わっても帰ろうとせず
店の隅で本を読んだりしている繭子を
おじさんは不思議に思いながらも
親元を離れて寂しいのだろうと
適度にほっておいてくれた。

そして
焼きたてのパンを試食させてくれた。

繭子が一番感動したのは
シンプルな食パンだった。

今までもトーストは もちろん好きで
馴染みのパンだったのだけれど。
焼きたての食パンの香り高さ。
あたたかく ふんわりとしなやかな触感と食感。
あまりにも別格で衝撃を受けたのである。

大好き。繭子は思う。
食パンマンが実際にいたら結婚したいくらいだ。
焼きたての食パンマンに
「僕の顔を おたべ」なんて言われたら
腰が砕けてしまうだろう。
ああ、堪らない。


でも さすがにそれは叶わない夢なので
繭子は パン屋のおじさんとの結婚を考えてみた。

繭子は まだ 男性と付き合ったことがない。

だけど
パンに囲まれて
美味しいパンが食べ放題で
そんな毎日過ごせるのならば
これ以上のことはないのではないだろうか？

「パン一筋で女っ気がないのよー」と
主婦のバイトの白井さんは言っていたけれど。

今年40歳だという店主は
近づくと いつもパンの香りがした。
いや ちょっと違う。
パンと男の匂いが混じり合って
ひとつになった 初めての香り。
いいかも。と繭子は思う。
もっと嗅いでみたい。
食べてみたい。
パンみたいな味がするかしら？

給料日に
食パンを10本買いたいと言ったら
おじさんは目を丸くした。

初めての給料で家族や友達にあげたいのだ
と あらかじめ考えていた理由を伝えると
とても感動して
社員割引だからと半額にしてくれた。

そして
繭子がバイトをあがる18時に合わせて
ホカホカのパンを焼き上げてくれた。

あたたかなパンを抱えて 家との間を3往復した。

さあ。いよいよだ。

今日のために買った
パン切り包丁とまな板で
丁寧にパンをカットしてゆく。
あたたかいパンは柔らかくて切りにくい。
潰さないように。優しく。愛を込めて。

すべてのパンをカットし終わると
繭子はベッドに隙間なく並べていく。
そして 服を脱いだ。
裸で ゆっくりとパンのベッドに身を沈めてゆく。

素肌に
ほんのりと温かさの残る
しなやかなパンが吸い付いたときには
わけもわからず鳥肌が立った。

気持ちいい。

ゆっくりと寝返りを打つ。
全身で 隈なく感触を味わってゆく。
できればサンドイッチのように包まれたい。

うつ伏せになり
むせるほどの小麦の香りに顔を埋める。

この上なく 幸せだ。

とろとろと眠くなってくる。

このまま
欲望に任せて寝てしまおう。

明日は おやすみ。
目が覚めて
お腹が空いたら
このパンをかじって
ゴロゴロごろごろ過ごすのだ。