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思い出を綴りつつ、今を綴る日記

音楽について考えてみた

 クラシック音楽好きの人が、自宅で洋菓子店を開いたというローカルな情報を入手して見に行ったことがある。普段から、何かの時に手土産になるような地元の名産を探して訪ね歩いているのだ。

 その店の外観は、昭和に建てられたような懐かしさの漂う普通の民家で、そこが店だと分からずに何度も前を素通りしてしまった。
狭い玄関で靴を脱いで上がると、すぐにサザエさん一家が集いそうな居間が続いていて、そこで飲食できるらしい。クラシック音楽が聴けるのが売りだと記事には書いてあったが、部屋の中は特に防音もされてないように見えた。普通の民家の居間なのだった。

 午前中の早い時間だったので、お客は私の他にはいない。店内は狭く、店主と思しき初老の男性がいたが、彼に笑顔はなく無表情なので「まだ開店時間ではなかったか?いらっしゃいませって言われたか?」と不安になった。気まずい雰囲気が漂う中、お目当ての焼き菓子がレジ横に並べてあるのを眼で確認し、選ぶふりをしながら店内を観察していると、ふいに店主が音楽を掛けたのだ。しかも爆音で。

いくら有名なオーケストラによる名曲の名演奏であっても、そこにはいられなかった。慌てて目当ての焼き菓子を購入して早々に退却した。
あれでは近所から苦情が出ないだろうか。もしかしたら、私は追い払われたのだろうか。兎にも角にも、音楽を聴く環境は大切だと思った。もはや購入した焼き菓子の味など憶えていないのだった。

 先日、音質の悪いザラザラしたラジオから流れてくる、ライブ録音されたアコースティックギターの曲を聴いていた。
歌い手の声はギターの音より小さく、やや早口で何を言っているのか正確には分からないが、その声からは”伝えたい”という気持ちを感じることはできた。つまり、一生懸命に歌っていたのです。
ただ、単調なメロディーを繰り返し掻き鳴らすギターの音ばかりが耳について、だんだんと聴くのが苦痛になり、ラジオを消した。
すると、静寂が戻り、鳥の声が聞こえ、至福の時が訪れた。
そうして思う、音楽って何だろう。

 「誰かに届けたい思い、言葉があるのです。それを言葉にすると何か違うように感じて。この身体・心から沸きあがってくるこの感情は、どうしても上手く言葉では言い表せなくて、音で表現してみました。」
そうして人々は音楽家になるのだろうか。

 沸きあがってくる感情を音にした。メロディができた。更にいろんな音を重ねてみたら、何だか物語性が生まれた。ある世界が表現できたようだ。
それを聴いた人が何をどう感じるかは千差万別で、それぞれが感じたことを自分の言葉と声で表現してみたくなって、、、そうして人は歌手になるのだろうか。それとも言葉が勝手に沸きあがってきて、それで人は歌い手になるのだろうか。言葉が先だろうか、音が先だろうか。

 最近、自分の子供くらい年齢が離れている若者が作る、疾走感のある曲が好きになってよく聴いている。切っ掛けは、たまたまネットで見かけたアニメだったりするのだが。そして、今まで好んで聴いてきた、自分より年上のミュージシャンが作る曲では、何だか物足りないと感じてしまうのだ。
彼らだって疾走感あふれる曲を作っていたのだ。現在の彼らが作る曲では、今の自分は物足りないと感じている、その理由をずっと考えている。
理由なんてものは、だいたい分かっているのだけど、何だろう、それを言葉にするのは無粋な気がする。

 年齢とともに人は高い音を出せなくなっていく。どうしたって喉が衰えていくからだ。まだ二十代の若者の歌手でさえ、数年前には出ていた高音が出せなくなっているとラジオで言っていた。
喉を酷使しない人でも、ずっと声を出さないでいると、やはり発声に関わる器官が衰えて声が低くなっていくという。同時に嚥下機能も衰える。
これは自分が体験したから良く分かる。コロナ禍以降、人と会って話をする機会が無くなり、声が随分と低くなった。そして、何もしていないのに、ひょっとした瞬間に唾が気管に入って死にそうになったことがある。
恐るべし、老化現象。

では、音楽で疾走感を表現するには、高い声もしくは音が必要なのだろうか。低い声や音では不可能なのだろうか。重厚な音は、疾走感や爽快感とは別次元なのだろうか。いやいや、エレキベース音でも、リズムで疾走感を表現できそうだ。表現したいものが限られそうではあるが。
他に重厚かつ疾走感が溢れる音となると、スペースシャトルの離陸音や、大砲や戦車、ミサイル発射音が思い浮かぶのだが、どちらかと言うと、それらの爆音には爽快感よりも恐怖感が勝る。

 意識していなかったが、リズムの好みも年齢と共に変化していくものなのかもしれない。変化には、むろん個人差があるのだろうし、全く好みが変化しない人だっているのだろう。また、その好みの変化も、対象となるものによって異なるのかもしれない。

 好みと言えば、自分の推しの漫画家が推すミュージシャンが、自分の推しになるとは限らない。つまり、私が推している漫画家が愛する音楽を、私は理解できないという事実があるのだ。その漫画家が「なんて美しい、大好き」と称する音を、私は公害の類ではなかろうかと、失礼ながら本気で思ったりしている。すみません(-_-;)。
このように、推しの漫画家の音楽センスを私は理解はできないのに、その漫画家の創り出す作品の世界観には、どっぷり浸れるのだから不思議だ。

たぶん、全てを理解できなくてもいいのだと思う。一部でいいのだ。
君のその、そこの部分だけ僕は好きなんだ。
それで充分じゃない?

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