シェア
小海 淳
2015年12月1日 08:24
そろそろ、日が落ちるだろうか。 僕はそんなことを考えながら、隣を歩く雨田の足音を聞いていた。名前のわりには晴れ男で、小学校の頃から、彼と一緒に帰る日には雨が降った事がない。そうして二人歩いていると、たいていすぐに夕暮れ時になって、暗闇が足下へ近づいてくるのを何となく恐ろしいような、ホッとするような気持ちで待ち受けるのだ。「まあ、分かるよ。おまえの言いたい事はさ」 雨田はそう言って鼻を鳴らし
2015年12月1日 08:26
1. 最初に気がついたのは、隣に妻がいないことだった。シーツには彼女の形のしわがあり、毛布にはかすかに彼女の残り香がありながら、彼女の体だけがそこになかった。ふっと冷たい予感が走って、私は思わず大声で彼女を呼んだ。「文子!」 返事はなかった。頭がはっきりしてくるにつれ、彼女にしてきたいくつもの不誠実が思い出され、心臓の鼓動が早まった。 とうとう愛想を尽かされた、と思った。昨夜、ごまかさずに
2016年6月17日 00:46
ささやかな宴が終わり、騒がしい学生たちの一団が、中華料理店の熱気から冷たい夜道へと放り出された。彼らは会計を終えてもなお散らばりきらず、軒先に釣られた赤と橙の電球を背にして、蚊柱のようにわんわんと声を響かせている。 喧騒の中、紺色の服をまとった影がひとつ、するりと群れからこぼれ出た。「桐子ちゃん、二次会行かないの?」 遠回しにとがめるような声がした。彼女は聞かなかった振りをして、一人、路地
2015年10月24日 19:35
私は走らずにいられなかった。その日は雨が降っていた。私は頬に額に当たる雨粒を味わった。いい気分だった。私は折られた矢だった。戦争は終わった。戦争は終わったんだよ、きみ。 私たちの荒廃した心は、地面に埋められてそのうち土に還るだろう。折れた矢は土に還るだろう。私はとてもいい気分だった。今日は戦争が終わった日だ。明日がくることは考えないようにしよう、明後日や明々後日はもっとずっと先のことだ。私はも
2016年6月17日 00:29
海へ向かう電車に乗っていた。アルミニウムの手すりに頬を寄せて、自分が手に入れた自由の冷たさを感じた。そのために引き換えにしたものたちを、窓の向こうにいくつも見つけた。家々の灯り。笑いあう親子。きっと作りかけの夕食の匂いが、換気扇から外へ流れている。 それは私がずっと夢見てきたはずのものだった。けれど、結局手には入らなかった。人にはそれぞれ生まれ持った手のひらがあって、私の手のひらは小さくて、小