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「科学のなかの文学とはなにか」

 ここのところ、ずっと「科学のなかの文学性」について考えている。
 きっかけは、二〇一六年に講談社から上梓した『明日、機械がヒトになる』という科学ルポで、アンドロイド研究者の石黒浩先生と対話したことだった。

 ぼくはこの本のなかで「人間と機械の境界を探る」、というテーマを立て、そこへアプローチするにあたり、まず2つの方向性を提示した。
 その2つとは、「機械の人間化」と「人間の機械化」だ。
 前者は人工知能など、人の知性をシミュレーションする技術で、後者はサイボーグやビッグデータなど、人をデータや機械として扱う技術である。
 この2つのベクトルがぶつかりあう場所を見極めれば、今のテクノロジーの最前線、そして「人間と機械の境界」が見えるのではないか——そう思って六人の科学者と対話させてもらった。
 石黒浩さんはそのなかの一人で、「人間とゴキブリは同じだ」「人間に生きる価値などない」などなど、一見ラディカルな発言の奥に、深い哲学が見え隠れする天才肌の研究者だった。
 石黒先生のアンドロイドはマツコ・デラックスそっくりの「マツコロイド」が有名だが、対話のなかで、なぜあのようなアンドロイドを作るのかたずねたところ、「人間を知るため」という答えがかえってきた。
 もし人間そっくりのロボットを作って、それが人間たちに受け入れられたとき、そこに人間の定義が書いてあるはずだというのである。
 つまり、石黒先生は、人間を知るために人間を研究するのではなく、アンドロイドを通して、人間を研究しているということだ。
 彼の、科学技術を通じて人間を知ろうとするその姿を見たとき、ぼくのなかでふと、「科学のなかの文学性」という言葉が浮かんできたので、そのときの原稿には「科学のなかの文学性」と書いたのだが、案の定、編集者に「これはどういう意味でしょうか?」とたずねられた。
 どうも「文学性」という言葉の意味がわかりづらいらしい。
 なにもそう難しいことではない。
 ぼくが考える「文学」の定義はとてもシンプルだ。
 文学とは——「人間」の行為であることが前提とされている芸術——なのだ。
 
 だとすれば、機械の行為は文学になりえないのだろうか?

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