銀のチャームとガムテープ
短編小説
◇◇◇
ひとりも客がいない深夜、私は店にあるカラオケの通信機器をオフにして、代わりに有線放送でFMラジオを聴いて過ごす。
広さ六坪の小さなスナックである。カウンターが七席と六人掛けのボックス席がひとつ。このところ、満席になったことはない。
いつもは午前零時で店を閉めるが、水曜日の深夜はお気に入りのラジオ番組があり、それを聴くためにわざわざ店に遅くまで残っている。カウンターの中でグラスを磨いたり、カクテルの新作を考案したり、フルーツや野菜を使って飾り包丁の練習をしたりしながら、耳はしっかりとスピーカーに集中するのが習慣になっている。
今夜は遅い時間に、非常に珍しいことだがひとりの客人がやって来た。三十代後半くらいの男性で、この辺では見たことのない顔だった。濃紺のピーコートにオフホワイトのマフラーを巻き、頭と肩には降り始めたばかりと思われる綿雪が乗っていた。男は店内に入ってからぽたぽたと下に落ちたそれらの雪を見て、わっ、ごめんなさい、床を濡らしちゃいました、と言って、申し訳なさそうに頭を下げたあと、人懐っこい笑顔を浮かべた。
「どうかお気になさらずに。よろしければ、こちらのお席にどうぞ」
私はカウンターの席に案内した。気遣いのあるお客様は、こちらも嬉しくなる。おすすめを下さいと言われたので、シングルモルトのお湯割りを出したら、予想以上に感激した様子だった。
「この香り! お腹がぽかぽかしてきた。マスター、とっても美味しいです」
「ありがとうございます」
言葉の感じから、男が地元の人間ではなく、関東から比較的関西に近いところの出身ではないかと私は推察した。
「マスター、静かな晩で落ち着きますね。ここは城下町なんですってね」
「ええ、江戸時代からある建築や史跡を訪ねて、観光に来られる方が多いですよ」
「たしか、特産品の美味しい枝豆……」
「だだちゃ豆ですか?」
「そう、それです。ぼく、頂いたことがあるんですが、大好きなんです。中山美穂のCMで、一躍全国に知れ渡りましたものね」
男は話し好きだった。初めてこの土地に仕事で訪れたというわりには、この町の美味しい店や耳寄りの情報を知っていた。地元の人間の私よりも詳しいと感じるほど、彼が持ち出す話題には新鮮味があり、同時に面白かった。清潔な身なりと甘いマスクは、それだけでも多くの異性を魅了するだろうと思われたが、雪の降る東北の寂れた地方都市で、ちんまりとしたスナックを経営している私のような五十代の男でも、彼が話し始めて一分も経たないうちから、もう人柄に引き込まれている自覚があった。
「ぼく、名古屋から来たんですよ」
「ああ、やはりそうでしたか」
「わかりました?」
「はい、言葉の感じで。色々なお客様とお話しさせて頂いたこれまでの経験から、何となくですがわかるように……」
「さすがですね。このお仕事をされてる方は、人間観察に長けている方、多いですものね」
表情が豊かなので話しやすく、返ってくる言葉も素直で嫌みがない。合間合間に相手を気持ちよくさせるような言葉を挟んできて、それでいて、持ち上げてどうにかしようという底意を感じない。話を聞くよりもこちらから話したくなる、そんな不思議な魅力を持った人物だった。接客する立場の私は、彼の前だとその本分を忘れてしまいそうになる。いったいどんな職業の人なのだろう。
「ぼく、バイヤーなんです。アクセサリーやルームインテリアの買い付けをしています」
男は、そう言って自分の名刺を差し出した。
「この町に来たのも、銀細工の作家さんに会うためだったんですよ」
名前を教えてもらったが、あいにく、私はそのアクセサリー作家を知らなかった。この近くで工房を構えているとのことだが、その前を何度も通ったことがあるのに、今まで一度も気付かなかった。私は自分の迂闊さを詫びたが、男は、非公表なので看板もないですし、地元の方でも知らなくて当然ですよ、と言って、くすぐったそうに肩をすくめた。
「だからマスター、彼がここに住んでいることは内緒でお願いしますね」
男は人差し指を一本、唇の前に立ててそう言ったあと、おもむろにポケットから革製のキーケースを取り出し、中に下げられている小さな銀製品を見せてくれた。
「これが、その作家さんの作品です。これ、何かわかりますか?」
私は彼が示してくれたものを興味深く見つめた。ペンダントやピアスのチャームになりそうな、小さな銀製のレリーフだが、はて、これはいったい何を彫り付けたものだろう。尻尾があって、丸い背中があって、大きな頭部には目のようなものがあって……私には、孵化したばかりの魚のようにも、卵の中で成長を始めたサンショウウオのようにも見えた。困惑している私を見かねたのだろう、先に男が答えを教えてくれた。
「実はこれ、母胎の中にいる人間の赤ちゃんがモチーフなんです」
「では、胴体の前に付いているこれは、ひれじゃなくて手と足ですか?」
「はい、まさにそこなんです」
男はにこにこと楽しそうな顔で、系統発生について私に説明してくれた。
「受精卵が子宮に着床してから出産するまで、約十ヶ月がかかりますよね? その間、人間の赤ちゃんはお母さんのお腹の中で、これまで生命が歩んできた進化の過程を、まるで映画のフィルムの早回しみたいに再現しているという説があるんです。反復説、とか、系統発生とか呼ばれてるんですが」
「反復説……」私には初めて耳にする言葉だった。
「はい。地球の原始の海の中で生命が誕生して、そこにぼくらの系統的な祖先ともいえる脊椎動物が現れて、それが陸に上がって、両生類やら爬虫類やら鳥類やら哺乳類やらになっていくんですが、妊娠一ヶ月の人間の胎児は、まるで生まれたての魚みたいにえらがあり、ひれがあり、尻尾があるんです」
男は綺麗な指を目の前でひらひらさせながら話した。私はその動きに想像力を掻き立てられた。
「妊娠二ヶ月になると、そのひれが手や足の形みたいになってくるんですが、よく見るとこのときの赤ちゃんの指の間には水かきがあるそうですよ。まるで魚類から進化して両生類や爬虫類になったみたいに」
私は自分の、何の変哲もない手の指の間をちらりと眺めた。
「そして、妊娠六ヶ月にもなると、髪の毛や体毛が生えてきて完全に哺乳類。姿も人間の赤ちゃんみたいになるのだとか。普段見ることができない母胎の中で、進化の系統発生が再現されているなんて、ぼく、すごくドラマチックなことだと思うんですよね」
「すごい話ですね。古代から現代に至るまでの進化が、人間の体には記録されている、というわけですか」
「そうです。マスター、さすがです」
男はさっきの銀製品をもう一度指し示した。
「この作品は、妊娠二ヶ月の胎児の姿なんです。系統発生でいうと、海から陸に上がる頃です。えら呼吸から肺呼吸へ、泳ぐのに使っていたひれを足のように使い、水の中よりも遥かに多くのしかかってくる重力に耐えながら、のたうち回るように陸で生きる道を私たちの祖先は選んだわけです。不思議なことに、このたいへんな苦労の時期と、妊婦が経験するつわりの時期とが重なるそうなんです」
「何だか、古代と現代の間でシンクロが起きているみたいですね」
「そんな感じがしますよね。赤ちゃんも、体の成長に重要な変化が起きている頃で、ひょっとしたら、胎児が頑張れるように、その苦しみを、お母さんがつわりとして引き受けてあげているのかも知れませんね。あ、今のはぼくの勝手な想像ですけど」
私には子供がいなかった。だからなおさら、生命の誕生の話には関心があった。男は続けて言った。
「人類の祖先の始まりが、五億年前の脊椎動物の誕生にまで遡れるなら、ぼくたちは早回しで五億歳を母胎の中で経験しているんです。みんな、この苦しい時期を乗り越えて生まれてきたんですよ。……それを考えたら、この銀の胎児のチャームに、特別な愛着や思いが湧いてくると思うんですよね。作家さんがこれを制作した意図は、こういうところにあるんですけど……すみません、ぼくの説明、下手でしたか?」
「いえ、わかりやすかったです。初めて知りました。とても興味深く、神秘的なお話でした」
よかった、と言って男はもう冷めてしまったお湯割りのグラスを、一気に呷って空にした。
「そろそろ、ぼく、帰りますね……あれ、これってラジオですか?」
時刻は零時を回り、店内のスピーカーからは、私の好きなラジオ番組が邪魔にならない音量で流れていた。
「ぼく、このFM番組をたまに聴いていますよ。リスナーからの投稿が楽しくて。この地域でもやってるんですね」
「実は、有線放送で流しています。地元の局では残念ながら聴けないんですよ」
このあと、ちょっとした奇跡のようなことが起きた。
番組のパーソナリティーが、軽快な口調でリスナーの投稿を読み始めたのだが、その内容に、帰り支度をしていた男と、会計の伝票を手渡そうとしていた私の動きが同時に止まったのだ。
黙ってラジオに耳を傾けていた男が、突然、あっ、と声を上げた。
「これ、ぼくのことです。昨日の出来事ですよ。この女の子、ぼく覚えています」
「えっ本当ですか」
「何だか、ぼく、説教くさいですよね。恥ずかしいなあ」
私は心の底から驚いた。こんな偶然があるなら奇跡だと思った。私は急いで音量を上げた、
男はハンカチで額を拭っていた。
「いやあ、汗をかきました。ぼく、変なこと、言ってませんでしたよね?」
「……ええ、でも、……これは全部本当にあったことなんですか?」
私も、投稿者の女子高生と同じ疑問を、彼にぶつけてみたい気持ちだった。
「全部本当です。あ、ひとつだけ違いました。床じゃないんですよ、壁にガムテープなんです」
男は会計を終えてから、すまなそうな顔で私にお願いがあると申し出た。
「ぼく、今から名古屋に帰ろうと思うのですが、このお店の壁を貸してもらえませんか?」
男はバッグから、ガムテープを取り出していた。
「えっ、本当に……本当に、そんなことができるのですか?」
「はい。マスターにはもう隠す必要はないと思って……。あの、これ、ぼくに魔法が使えるとかじゃないですよ。『シプカ』のことり隊長さんから譲って頂いた、このガムテープがすごいんです。壁に四角の囲みを作ると、その中を通り抜けて、名古屋にある『シプカ』に直接行けるんです。どんな場所からでも。なぜかはわからないです。でも、これってすごくないですか?」
もちろん、男の申し出を私は快諾した。壁にガムテープを貼って、どんなことが起こるのか、この目で確かめたかったのだ。
男は、店の壁に綺麗な四角形の枠をガムテープで貼り付けると、まるで、その四角の中に奥行きのある空間が存在しているかのように、お尻を入れて、腰を掛けた格好になった。
「ぼく、シプカに着いたら、この銀のチャームを紹介するつもりです。気に入ってもらえるかはわかりませんが。……ぼく、この仕事が好きです。素敵なものにいち早く出会える、この仕事が」
男の体は、後ろから誰かに引っ張られているように、みるみる壁の中に吸い込まれ始めた。
「マスター、また会いましょう。あ、このガムテープのことは絶対に内緒でお願いしますね」
男は人差し指を一本、唇の前に立てて、笑顔で壁の中に消えていった。
ひとり、ぽつんと残された店内には、ラジオが静かに流れていた。ジェイミー・カラムの『ターン・オン・ザ・ライツ』というクリスマス・ソングがかかっていた。
壁にはガムテープで作った四角い枠があるだけだった。私は入り口の扉に閉店の札を下げ、店の灯りを消さなければならないのに、それよりもまず、スマートフォンを取り出し、さっきからずっと気になっていた『シプカ』という名前の検索を始めた。
(了)
四百字詰原稿用紙十八枚
『ターン・オン・ザ・ライツ』 ジェイミー・カラム
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