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めでたし まことのお体よ

短編小説〈クリスマス・ストーリー〉

◇◇◇


 一度も行ったことがない町に旅をしようと思った。六年前の冬の話だ。

 急に思い立ったことなので、泊まれる宿が見つかるか不安だった。十二月二十四日は、どこも満室だろうと思ったからだ。

 できれば北がいい。さらにうら寂しい日本海側なら、今の自分の気分に合っている。そう思って、地図で行き先を適当に決め、駅から近いところにある名の知れたビジネスホテルに問い合わせたら、あっさりと部屋を確保できた。そういうものか、となぜか腑に落ちた気持ちになった。

 二十四歳で傷心旅行と言ったら笑われるだろうか。

 学生時代から仲良くしていた女友達に告白をして、恋と女友達を同時に失った。長い間温めていた恋だったので、振られたとわかったときのダメージは大きかった。もともと思いを告げるつもりで、彼女を自分のアパートに呼んだ。何度も遊びに来ているので、彼女の方は普段通りの感じでいたはずだ。しかし、こちらはそうはいかなかった。おしゃべりをしていても心は上の空で、「今日はいつもと違う。さっきから変だよ」と彼女に言われる始末だった。ふと、彼女の髪に金色に光る化繊の糸屑を見つけ、それを取ってあげようと手を伸ばした。指が柔らかい髪の毛に触れたその瞬間、どういうわけか堰を切ったように想いが溢れ、気がつけば彼女を強く抱きしめていた。「やめて」と言われても離さないでいたら、強い口調で「やめろ」と言われた。「やめないと友達をやめるぞ」と叫ばれ、ずっと好きだったと気持ちを打ち明けたが、すでに遅かった。肝心なところで順番を間違えたのだ。

 急行列車の窓から、波濤の荒々しい灰色の日本海を眺めた。同じように灰色の曇天から落ちてくる無数の雪を見つめていたら、最後に彼女から言われた言葉を思い出した。「二人きりで会うことは金輪際ないから」……腕の中でもがいていた彼女に強く突き飛ばされたあと、怒った口調でその言葉を投げつけられたとき、たしかに自分は、終わったと思った。ひとりになった部屋の中で長い間茫然と佇んだ。もうこれまでのように彼女がここに来ることはないし、この部屋で好きなクラシックを聴きながらラヴェルやドビュッシーの話をすることもできなくなったのだなと思った。取り返しはつかない。あれから何度もため息をついている。

 列車は海岸線を離れ、市街地に入った。見知らぬ街は、全体にうっすらと雪をかぶっていた。駅に降り立つと、冷蔵庫の中に入ったような冷気に包まれた。北国に着いたのだと思った。

 ホテルは七階の部屋だった。作りは古く、狭かったが、ベッドは寝心地が良さそうだった。窓の前に立つと、街が一望できた。高いビルがないので、晴れているときの見晴らしの良さは想像できたが、あいにくふわふわと落ちてくる雪のせいで、遠景は白一色に溶け込んでいる。それでも、近場にある建物は見える。民家の家並みの中に、赤い尖塔の屋根があった。教会だろうか。目を凝らしたが、尖塔のてっぺんに十字架が付いているかはわからなかった。

 そのままベッドに入って眠ってしまったらしい。一瞬、自分がどこで寝ているのかわからなかった。旅をしてホテルにチェックインしたことを思い出し、すっかり暮れてしまった窓の景色を見て頭を抱えた。せっかく旅に来ているのだから、訪れた町の雰囲気を感じたかった。暗くなってからでは、目に映る景色の半分も見ることができない。午後六時。雪はまだちらちらと降っていた。少し早いが夕食を取りがてら、この辺りを散策しようと思った。雪の降る夜の街を堪能したかった。

 青い電飾が点滅するクリスマスツリーに見送られて、ホテルのロビーから、夜の顔になった初めての町へ足を踏み出した。履いているのはドクターマーチンのサイドゴアブーツ。北国だから寒いだろうと、出掛ける直前に、急遽、箱から出して履き替えたのだが、この判断は正しかった。雪に馴染みが薄いと、こういう当たり前の装備を忘れがちになる。天啓に感謝し、予め防水スプレーで手入れをしておいたことを幸運に思った。このブーツを買うとき、友達だった彼女に新宿まで付き合ってもらったのだった。そんなことをいちいち思い出して胸が痛む。新しいブーツの靴底を、ホテルのそばの舗道に積もった新雪の上に押し付けた。スタンプされた模様を、しばらくしんみりとした気持ちで眺めた。

 街の明かりが賑やかな方に向かって歩いた。小さな雪が首元から入るので、ダッフルコートのフードをかぶり、コートの内ポケットからイヤホンを引き出して耳に装着した。音楽プレーヤーに好きなクラシックを何曲か詰め込んできたのだ。今流れているのはワーグナーの『《タンホイザー》序曲』。勇壮な気持ちで駅前の横断歩道を渡った。身を寄せ合って歩くカップルやクリスマスケーキらしき四角い箱を手に提げたスーツ姿の男性らとすれ違うが、出歩いている人は少ない。通りを往来する車は途切れることはないものの、普段より交通量が多い状態なのかは自分には知る由もない。クリスマスイブだというのに、町は全体的に寂しい感じがした。

 飲食店の看板を見つけながらも、この路地の先に何があるのか気になり、いくつも店を通り過ぎて歩いていたら、点々と外灯が続いているだけの人の気配のない通りに出た。住宅に明かりはついているが、お店のような看板が出ていても、シャッターは閉まっている。ひときわ明るいイルミネーションを見つけて近付いていったら、庭先の樹木をLEDとオーナメントで飾り立てた個人宅のようだった。城下町で歴史のある市街らしく、古い土蔵がそのまま残っていたり、年季の入った石橋が架かっていたり、歩いていればそれなりに見るべきものはあり、退屈はしなかった。だが、いったい自分は今どこを歩いているのだろう。気の向くまま、初めて訪れた町を歩き回ってしまった。いくつも路地を曲がり、狭い道に入っては引き返し、自分ひとりだけの足跡を往復で雪上に残し、そのうち迷路に嵌まったように方向がわからなくなった。耳に装着していたイヤホンからは、シューベルトの『交響曲第九番《ザ・グレート》』の第二楽章が聞こえていた。うっすらと雪が積もる夜の路地を、たったひとりでとぼとぼと歩いている自分に、この曲はぴったりと合っているように思えた。

 ぽつんとそこだけ明るい外灯の下で、コートに付いた雪を払っていたら、不意に彼女の髪に触れたあの日のことを思い出した。あのとき、髪の毛に付いていた糸屑を取ってあげようと体を寄せたら、思いのほか彼女の頭が近くにあったのだ。そして、伸ばした指が柔らかい髪に触れただけでなく、彼女のなまめかしい頭髪の匂いも自分は嗅いでしまったのだった。それは温かみのある匂いだった。トリートメントの華やかな香りの奥に、汗や皮脂の混じり合った人間らしいプリミティブな匂いがはっきりと感じられた。それが、人肌の熱を持って鼻の奥へ侵入してきたのだ。だからあの瞬間、抱きしめてしまった。あの瞬間、彼女を欲しいと思ってしまった。あの瞬間、理性は飛んでしまったのだ。

 路地を抜けたら、町の中に流れている川に出くわした。河畔には柳があり、二十メートルほどの橋が、何本か架けられていた。中でも赤い欄干の橋が外灯に浮かび上がり、目を引いた。うっすらと白い雪が乗って、赤と白のコントラストが美しかった。ブラームスの『交響曲第三番』の第三楽章を耳にしながら川べりの歩道を進み、赤い橋を渡った。雪の降る町に、ブラームスの哀愁を帯びた旋律がはまりすぎて、切ない気持ちになった。映画でもこんなクサい使い方はしないだろう。旅に出たのは、ひとりになって自分を見つめ直したかったからだ。そのために、知り合いの多くいる東京を離れた。自分への懲罰のように、敢えて気候の厳しい時期の東北を選んだ。すぐに何か変わるわけではない。けれども自分は、たったひとりでとぼとぼと雪の上を歩いたこの寂しいクリスマスイブを、生涯忘れまいと思った。

 橋を渡り終えて、何の気なしに顔を上げたら、少し先に尖塔形の赤い屋根が見えた。ホテルの窓から見たあの建物だとわかった。尖塔のてっぺんに十字架らしき形の影が確認できる。近付いていくと、ロマネスク様式で建てられた白い木造の教会だった。どうして民家のひしめき合う中に、このような異国情緒満載の建築があるのか不思議だった。さらに教会の敷地の前には江戸時代から残る武家屋敷の門があった。そこには「天主堂」と記された筆文字の看板があるので、ここが教会の入り口であるのは間違いないようだった。何ともちぐはぐな組み合わせで、一瞬、狐に抓まれたような気持ちになる。それでも、クリスマスイブに教会を訪れるのもわるくないと思い、しばらく門の外で雪がちらちらと降りてくるのを眺めた。ブラームスが終わって次にイヤホンから流れてきたのは、モーツァルトの合唱曲『アヴェ・ヴェルム・コルプス』だった。シャッフル再生にしていたので、教会の前で偶然に教会音楽が始まったのはささやかな奇跡のようだった。霧のような美しいコーラスを聴いていたら、どういうわけか涙が滲んできて、指で拭うと自分の涙の温かさに驚いた。

 突然、敷地の中から声をかけられた。

「大丈夫です、中に入れますよ」

 そう言って、門まで来て姿を現したのは、外国人の若い女性だった。水色のセーターにベージュのマキシスカート。体の前には花柄があしらわれた黒のエプロンをつけていた。肌が白く、瞳の色も薄く、どう見ても日本人とは思えなかった。

 女性に案内されるままに、教会の中へ入った。今夜はクリスマスイブなので、いつもと違って遅くまで教会を開放しているのだという。話し方が明るく、物腰の静かな女性だった。とても親切で、コートに付いた雪を払うことにまで気を遣わせてしまった。

「お召し物が濡れてしまっていますが、ずっと立っておられたのですか?」
「いえ、旅行で訪れたのですが、外でご飯を食べようとお店を探していたら、いつの間にか道に迷ってしまって」

 正直にそう話すと、女性は「迷って辿り着いたのが教会だなんて」と言って、少女のような笑顔を見せた。

「何かご縁があるのかも知れませんから、ゆっくりと中をご覧になっていって下さいね」

 見た目とのギャップと言ったら失礼に当たるだろうか。先ほどから感心していたのだが、何て素敵に日本語を話す女性だろう。日本に生まれついた人が話すような自然な発音で、最初に西洋人の顔立ちを拝見していなかったら、このような思い込みによるちぐはぐな先入観を抱くこともなかったように思う。

 教会の内部も外観と同様に白くできていた。正式な言い方だとバシリカ三廊式という造りで、両側に並ぶ列柱が天井の高いところでアーチ型に交差する眺めは壮観だった。礼拝に訪れる人たちの座る椅子の床が、畳敷きになっているのも面白い。明治に建てられた歴史ある建築物で、フランス人の神父が設計し、この地元に住む大工が棟梁となって造ったのだと女性が説明してくれた。

「この教会にいらしたのなら、ぜひ、マリア様を見ていって下さい。フランスのノルマンディーにある修道院から贈られた黒いマリア様です。黒いマリア像は世界でも数体あるだけの珍しいものですが、日本にあるのは唯一、ここだけなんですよ」

 女性に導かれるように、副祭壇の前に歩いて行くと、冠をかぶり、きらびやかな衣裳を纏った聖母像が飾られていた。言われていたとおり、顔は黒というよりも褐色で、抱いている小さなイエスも、聖母と同じように褐色の肌をしていた。

 この教会に着いてから、さまざまな意味でちぐはぐなものに遭遇した。日本の住宅に囲まれたロマネスク様式の建築。家老屋敷の門をくぐって入るカトリック教会。ネイティブな日本語を操る西洋女性。そのちぐはぐの最たるものが、黒いマリア像だった。しかし、それだって自分の先入観によるものだと考えを改めた。ちぐはぐな印象も、理解すればやがて調和したものに変わる。聖母子像から最初に受けた違和感も、雪が解けるよりも早く自分の気持ちに馴染んで、今はすっかり受け入れている。

 マリア像を見ている間、女性はエプロンを外して、入り口から出てどこかへ行ってしまった。しかし、しばらくして、帰り支度を済ませたかのように、外套を着込み、マフラーを巻いた姿で入り口から顔を出した。

「それではお先に失礼いたします。ごゆっくり」

 慌てて声をかけた。

「あの、こちらの教会のかたではなかったのですか?」

 女性は外を指差して、にこやかに答えた。

「私はこの近所に住んでいます。ここにはたまにお手伝いできているんですよ。これから子供たちに食事を作らないといけなくて。ゆっくりご案内できなくてごめんなさい」

 女性には育ち盛りの子供が三人いるのだという。自分と同じくらいの年齢だと思っていたので少し驚いてしまった。

「とても素敵な教会でした。ぼくの方こそいいものを見せてもらいました。あの……最初に声をかけて下さってありがとうございます」
「よい旅になるといいですね」
「最後にひとつだけ……ここから駅へはどう行ったらいいですか」

 宿泊するホテルの名を口にすると、女性はさっきみたいに少女のような笑顔を見せた。

「迷ってここに辿り着いたのですものね」
「はい。また迷路から戻っていける自信はありません」
「あはは、可笑しい。あなた、とても楽しいかただったのですね。もう心配ありません。すぐそこの通りを、真っ直ぐに進んで下さい。ひたすら真っ直ぐです。突きあたったところが駅です」
「そんなに簡単だったんですか」

 女性は口を押さえながらクスクスと笑い、青みがかった灰色の瞳でこう言った。

「迷路に嵌まったら、高いところに昇るといいです。鳥のように高いところから見渡せば、迷うはずがありませんもの」

 それは、しばらく心に残るような、とても綺麗な日本語だった。

 女性が帰ったあと、もう一度、黒いマリア像に挨拶をして、教会を後にした。

 雪は降り止んでいた。会話をしているときに、失礼に当たると思って耳から外していたイヤホンを、再び装着した。流れていた演奏はラヴェルの『ラ・ヴァルス』だった。友達だった彼女が愛聴していた曲だ。

(真っ直ぐに進んで下さい。ひたすら真っ直ぐです)

 女性が言っていた言葉がふと頭の中に蘇った。東京に帰ったら、まず彼女にきちんと謝ろうと思った。会いたくないなら無理は言わない。元通りになるとも思っていない。けれど、謝りたいという気持ちだけは伝えたい。

 夜が冷えてきて、急にお腹も空いてきた。下ろし立てのブーツが雪を噛んで、歩くスピードが上がる。気持ちが弾んできたのは、ラヴェルの音楽のせいかも知れない。寒いのに、ひとりでいるのに、温かい気持ちなのはなぜだろう。このちぐはぐな自分が、今はとても愛おしく感じる。

(了)


四百字詰原稿用紙約十六枚(5,974字)


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※この作品はフィクションですが、参考にした建造物は実在します。

〈作品内のロケ地〉

・鶴岡カトリック教会 / 山形県

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〈今回登場した曲の参考動画〉

ワーグナー:歌劇『タンホイザー序曲』


シューベルト:『交響曲第九番《ザ・グレート》』第二楽章


ブラームス:『交響曲第三番』第三楽章


モーツァルト:『アヴェ・ヴェルム・コルプス』


ラヴェル:『ラ・ヴァルス』


(2021.5.2 動画リンク追加)


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