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二十世紀の街角で

短編小説

◇◇◇


 新宿は田舎者が集まるところだと誰かが言っていた。なるほどな、だからここに来るとぼくはほっとするのか。

 工場が休みの日は、朝の九時に埼玉のアパートを出て、バスでしばらく揺られたあと、都内にある終点の駅で降りる。高架下をくぐって駅の入り口で切符を買い、階段を上って地上にあるホームから営団地下鉄千代田線に乗り込む。以前は西日暮里で山手線に乗り換えて新宿まで行っていたけど、国鉄は料金が少し高いことに気付いたので、今は大手町で丸の内線に乗り換えて新宿まで行っている。あ、そうだった、国鉄はJRに名前が変わったんだった。まだ、この言い方に慣れていない。E電なんて呼んでる人、本当にいるのだろうか。

 新宿駅にはいくつか出口があるけど、ぼくはいつも東口を選んだ。カメラのさくらやを横目に、車の往来する新宿通りを挟んでスタジオアルタの大型ビジョンを見上げれば、都会のファッショナブルな風を自分の全身で受け止めたような気持ちになる。東北出身のぼくにとって、この場所はお昼の時間帯にテレビで観たことがある憧れの風景なのだ。

 ぼくは典型的な田舎者なのだろう。オシャレでキラキラしている人たちと比べれば、確かに服装はダサい。持ち物だって野暮ったい、たぶん。でも、こんなぼくよりも見劣りする人が、新宿にはたくさんいる。本当に様々な人で溢れているのが新宿なのだ。だから、洋服を買いにオシャレな店を見て回ったっていいはずだ。ぼくは若者だし、丸井のカードだって作ってある。少しくらい背伸びをして、DCブランドを物色したっていいじゃないか。値札をちらっと見れば、自分には縁がない場所だって納得するけど。

 丸井ヤング館のエスカレーターに、連れ合いもなく、一人ポツンと乗っているのはぼくだけだった。寂しいとは思わない。新宿には、一人で来ている人が大勢いるからだ。ぼくは、独りでいることが当たり前だった。すべて独りで行動していた。独りでいても平気な町だから、ぼくは新宿が好きなのだ。

 ヤング館を出て人混みに合流し、歩道を歩く。やっぱり、紀伊国屋書店がぼくの行くところなのだ。外からエスカレーターで二階に上がり、文芸書のコーナーに入り浸る。新刊の平積みを見れば世の中の先端がわかった気になったし、棚一面がすべて水色に見えるハヤカワSF文庫の品揃えは、いつ訪れても興奮した。一般文芸の文庫の棚で目当ての本を探していたとき、すぐ横で大学生らしき青年が、連れの女友達に「武器よさらば、すごくいいよ」とヘミングウェイをすすめていた。好きな小説の話をする相手がいないぼくにとって、本屋で耳に入ってくる誰かの会話は貴重な情報源だった。

 現代文学のコーナーに行くと、本を吟味しているOLらしき若い女性を、見るからに陰気な男が「食事をしませんか」とナンパしていた。他の客もいる中で突然声をかけていたので、すげなく断られていたのは当然だったが、ぼくは何だか凄いものを目撃した気持ちになり、しばらく本を手にしても、頭に文章が入ってこなかった。

 平積みの文芸本の中に、前から気になっている小説を見つけた。藤原伊織という新人が書いた『ダックスフントのワープ』というタイトルの本だ。ベージュ色の表紙にオレンジ色の帯が巻かれてあり、焦げ茶色の長い顔をした犬のイラストが可愛いらしく描かれている。裏表紙まで見ていくと、その犬はスケートボードに乗っているのだ。ぼくは先週もここで、この本を手に取っていた。帯にはすばる文学賞受賞作、と書いてある。そういえば、前にぼくが買ったのは群像新人賞受賞作の本だった。このところ、新人賞をとった小説ばかりを読んでいるような気がする。群像の方は去年出版された本だ。『復活祭のためのレクイエム』という人を食ったようなタイトルにまず惹かれ、中を読むと、夥しい比喩表現に溢れている小説だった。書いたのは新井千裕というコピーライターを本職にしている人だった。ぼくが新人作家の本を読むのは、今の世の中に流行している新しい感覚というものに、ひどく飢えているからかも知れなかった。

 紀伊国屋書店で本を二冊買い、お腹が空いたので地下にあるカレー屋のカウンターで、ホールトマトが乗っているカレーを食べた。そのあと、ぴあをこっそりと立ち読みして観たい映画を調べ、新宿通りを伊勢丹方面に向かう。ぼくは映画も新宿で観るのが好きなのだ。

 少し前に『スタンド・バイ・ミー』というアメリカ映画をやっていたが、それを観たのも新宿の映画館だった。このときは、上映前に印象深い出来事があったので、ぼくはよく覚えている。それは、通路側の席に独りで座り、映画が始まるのを待っていたときだった。二人連れの上品なご婦人たちがぼくの隣の席に座ろうとやって来たのだ。前をごめんなさいね、と丁寧に声をかけてくれるので、ぼくも気持ちよく立ち上がって前を通してあげた。すると、その二人は、すぐに戻ってくるから席に置いた荷物を見ていて下さらないかしら、と再び丁寧な言葉で頼むので、ぼくも愛想よく、いいですよ、と承諾した。荷物を気にかけてここに座っているだけでよかったから、自分に負担なことは何もなかったし、それに、客電が落ちる前にご婦人たちはちゃんと戻ってきた。ほっとした顔のぼくに、二人は大袈裟なくらい丁寧にお礼を言い、そして、Lサイズのカップに入った冷たいコーラを、はい、お兄さん、と言って渡してくれたのだった。お礼の気持ちだというのだ。単純かも知れないが、ぼくはこのとき、見知らぬ人からの予想外の親切に、心を打たれていた。何もしていないに等しいぼくに、わざわざドリンクを買って渡してくれる。ぼくは都会の人の優しさに、初めて触れたような気がして、感動したのだ。だから、映画の後半に物凄くトイレに行きたくなっていたけど、最後まで我慢して席を立たなかった。それがご婦人たちに対するせめてもの礼儀だとぼくは信じた。

 そんなことを思い出しながら、伊勢丹を過ぎて明治通りを渡る。目の前にあるビルの地下一階で映画の前売り券を買い、再び地上に上がって新宿スカラ座に向かった。チケットを渡してロビーに入ると、映画館の従業員が、地声でお客様のお呼び出しをしていた。

「世田谷区からお越しのカミ様。お電話が入っております。いらっしゃいましたら、至急、カウンターまでお越し下さい。世田谷区からお越しのカミ様……」

 ぼくは、ロビーにいる客を見渡し、カウンターへと駆け寄る人がいないか、しばらく注目していた。同音の言葉に面白みを感じ、この映画館には神様が来ているのか、と思い、そう考えたら愉快な気持ちになった。独りでいると、空想する時間が多くなり、人間観察にも勤しむようになってくる。くわえて、今のぼくは、映画を観に来るお客様の中に神様がいたとしても、ちっとも不思議はないと思えるようになっていたのだ。期待して待っていたが、呼び出しに応じる者は現れなかった。ぼくは諦めてロビーを離れ、スクリーンのある館内へと入っていった。

 洋画を見終えて映画館を出ると、新宿通りは車道にまで大勢の人で溢れていた。歩行者天国の時間帯になったのだ。伊勢丹の前でぼさっと立っていたら、宗教に勧誘されそうになった。やはり、自分は田舎者に見えるのだろう。路上で勧誘を受けている人に、オシャレでキラキラしている人は見たことがない。決まって、野暮ったい格好をして独りで歩いている人が狙われていた。ぼくは悩み事を抱えている陰気な人間に見えたのだと思う。不本意だった。仏頂面のまま、すみません興味がないです、と言って勧誘員から逃れたが、あとになって、私たちの神を紹介してあげますと執拗に誘ってくるその人に、「神様なら、さっきまでそこの映画館で一緒だったよ」とでも言ってやればよかったと思った。実際には、そんな気の利いたセリフを自分が言えるはずもないのだけれど。

 ビルの谷間の歩行者天国を、人の波に溶け込むようにスイスイと歩いた。歩き始めたら、何だか元気になってきた。自分は田舎者だという劣等意識に苛まれず、周囲にいるのは都会人ばかりだという優越意識にも押し潰されず、自由な気持ちで、魚のように人混みの中を泳いで進んだ。浮遊感が伴うのに、水の中とは違うから、息苦しさは感じなかった。独りでいることが当たり前だった。独りでいれば傷付くことはなかったから。誰も自分を見ているわけではない。誰からも自分が関心を持たれることはない。でも、心のどこかでは誰かに自分を見て欲しいのだった。新宿駅の東口が近くなってきたので、再び、歩行者天国に引き返した。ぼくはまだ、このビルの谷間を、人混みに紛れて歩きたい気分だった。自分の少し前に、白いミニのワンピースを着た女の子が一人で歩いていた。青と黄色の水玉模様に見えた柄は、一つ一つが音符になっていた。後ろから一瞬見えた横顔が、とても綺麗な娘だった。しかし、声をかけるには勇気が必要だった。ぼくが躊躇っている間に、ピンクのカーディガンを肩から掛けた軽薄そうな男が近寄ってきた。彼女は男のあしらいに慣れているのか、声をかけられる前にさっと身を躱すと、スイスイと先を泳いで人の波に紛れて見えなくなった。ぼくには、彼女の方が自由というものを手なずけているように感じた。本当の自由は、おそらく孤独とは違うベクトルにある。孤独は、逆に自分を縛る。

 誰かが言っていた。新宿は田舎者が集まるところだと。ならば、やっぱりぼくにはこの町の水が合っているよ。敷居を高くせず、どんな人でも受け入れてくれる、こんなにも懐の大きな町はほかにはない。少なくとも、ここに来るとぼくは自分らしくいられるんだ。渋谷だと緊張するんだよ。どうしてだろうな。

 伊勢丹美術館でアメリカナイーヴ派の絵画を鑑賞し、外に出れば日が落ちていた。

 帰ろう。今日も最後までぼくは独りだった。

 新宿駅東口を目指して、夜の顔に変わった街を歩いた。歩行者天国が消えて、新宿通りには車が行き交い、歩道には大人の姿が増えていた。信号を渡ってさくらやとヨドバシから漏れてくる音楽を知らず知らずに口ずさみ、路面に落ちた店舗の明かりが、ぼくの影を引き伸ばした。来週もぼくはここに来るだろう。この町に通い詰める行為が、自分にとって何の意味があるのはわからない。けれども、このときの記憶と記録がいつか自分の支えになるかも知れない。新宿よ、ひとまずさようなら。夜空に別れを告げたぼくが最後に見たのは、MY CITYの建物の上に懸かった細い三日月。

(了)


四百字詰原稿用紙約十一枚(4,255字)


※この作品は自作の詩で同名タイトルの『二十世紀の街角で』を、小説のスタイルに改めるという一連の試みを志向したものです。(作者)

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作品の中に登場する書籍

・『ダックスフントのワープ』藤原伊織 集英社(1987)


・『復活祭のためのレクイエム』新井千裕 講談社(1986)




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