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#18 山古志・越後妻有へ(1)
ばたばたして公開が遅れてしまいました。
今回の記事は、前回のジンギスカン鍋発表会とはだいぶ趣向の異なる内容です。
羊も塩も関係ないのですが、考え方の軸や、通じる思いはこれまでと変わりません。
少し時間があいてしまいましたが、先月の21日(土)〜23日(月・祝)の三連休、新潟県の長岡市山古志地区と越後妻有(十日町市+津南町)を訪れました。
これらの土地を歩みつつ、過去を思いつつ、これからのことを考えました。
そのことを断片的に書いてみます。
今日は10月23日、中越地震から20年の日。
山古志の景色を目に浮かべつつ。
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9/21(土)、お昼前に越後湯沢駅に到着し、レンタカーを借りて最初の目的地である山古志へ。
山古志は、新潟県長岡市南部の山間地に位置する地区で、平成17年に長岡市と合併するまでは山古志村でした。
過疎化が進み、自治体としての維持が困難なことから、平成の大合併を機に長岡市と合併したのです。
令和6年9月1日時点の人口は合計362世帯728人。
面積は39.83km²、1km²あたりの人口密度は18.2人です。
山古志と言えば、今からちょうど20年前の平成16年(2004年)10月23日(土)17時56分に起こった中越地震を思い出す人もいるかもしれません。
私はというと、実は昨年まで山古志という地名も中越地震のことも僅かな認識しかありませんでした。
中越地震があったことは知っていましたが、当時海外に住んでいたこともあり、実感として記憶に留まってはいませんでした。
それが昨年になって急に意識し始めたのは、Nishikigoi NFT(Local DAO)という山古志に関するデジタル分野の活動に興味を引かれ、その動きの核心とも言える部分に中越地震があることを知ったからです。
今回はその内容には言及しませんが、Nishikigoi NFTという山古志デジタル村民創出の取り組みは、関係人口拡大を目的とする施策として興味深く、これからの変化を楽しみにしています。
そうした先進的な動きをよく理解するためにも、まずはリアルな山古志を知りたいという思いから現地を訪問しました。
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ただ残念ながら、この日は時間的に半日しか余裕がなく、越後湯沢駅からの車移動を差し引くと滞在時間は正味4時間。
さらに残念なことに、当日午後は強い雨が降り、あちこち歩き回ることもままなりませんでした。
それでも結果として行ってよかった。
今回の訪問により、山古志の印象は私の中に深く刻まれました。
訪れた具体的な場所としては、昼食に立ち寄った農家レストラン「山古志ごっつぉ多菜田」、長岡市山古志支所隣の「やまこし復興交流館おらたる」、そして木籠地区の「震災復興資料館さとみあん」の3カ所です。
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目的地に向かう途中で印象に残ったことがあります。
越後湯沢から関越自動車道を走って堀内ICで下り、柏崎高浜堀之内線を山古志に向けて登っていく九十九折の坂道がありますが、その途中で道路を覆うように両側から繁茂した夏草に遭遇しました。
人通りのまばらな様子を伝えるもので、草刈りをする人手もないし、敢えて必要もないということですが、人間社会の作り方について、これから考えるべき大切なヒントがあるように思いました。
植物との距離は人間にとって一番分かりやすい自然との共生関係を示すバロメーターです。
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さて、最初の目的地として、虫亀集落の農家レストラン「多菜田」を訪れました。
直売所や台所でお母さんたちが楽しそうに働く姿を見てほっこりしながら、山古志産の神楽南蛮を使った「山古志カレー」を頂きました。
カレーとともに提供された「そうめんかぼちゃ」も美味で、私はこのあたりから早々と山古志の世界観に引き込まれていました。
食べ物や料理には、その土地で育まれた哲学が宿ります。
これらの料理を食べる時間の中に、私は山古志という土地の力を感じていました。
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ところで、食堂のテレビでは、この日の朝から能登半島を襲った豪雨のニュースが流れていて、私はそこで初めて輪島や珠洲の被害を知りました。
年初の地震からの復興途上だというのに、再び被災してしまった様子を見て、文字通り言葉を失いました。
食堂に入ってきてテレビを見たお母さんも、同じように画面に釘付けになっていました。
本当に過酷な出来事に見舞われ、立ち直るのにまたどれだけの苦労を乗り越えねばならないか。
被災された方々のご無事を祈るほかありませんでした。
(こうして書いている今も、豪雨で被災された方々の避難先での生活は続いています。)
山古志でも窓外の雨が強くなってきていました。
土地に不慣れな余所者であり、時間も限られることから、当初予定していた徒歩による取材は難しそうだと判断しました。
予定よりも早めに行程を回るため、食べ終わるとお母さんたちにお辞儀だけして早々に食堂をあとにしました。
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次に向かったのは、長岡市役所山古志支所の隣に開設された「やまこし復興交流館おらたる」です。
ここは地域の総合案内窓口であり、中越地震で被災した地域の歴史や住民の記憶を伝える場所であり、地域住民と訪問者に愛される地域の象徴としての役割を担っています。
1階にはコワークが可能な交流スペースやお土産コーナーなど、2階には震災メモリアル施設と地形模型シアター、大ホールがあります。
まずは2階の震災メモリアル施設へ上がり、中越地震の発生前から現在までの歴史を学びました。
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山古志地区(当時は長岡市との合併前なので山古志村)では、中越地震の際に震度6強を記録しました。
6強とは人間が立っていられない震度であり、山古志でも多くの建物が損傷・崩壊するとともに5名の住民の方が犠牲になったそうです。
山古志と周辺地域を結ぶ道は、路面の崩壊や地滑り・崖崩れによって遮断され、村全体が孤立状態となってしまいました。
さらに、村内を流れる芋川で土砂が流れをせき止める河道閉塞が発生し、天然のダムができ、一部流域付近の住宅が水没するという大規模な被害にも見舞われました。
このような状況から、山古志村では全村避難を決断し、発災から2日目には、当時既に合併することが決まっていた長岡市へと避難することになりました。
全村避難は3年2ヶ月にわたって続きましたが、その間、村の人々は山古志へ帰ることを望み続け、最終的には無事に帰村することができました。
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「おらたる」では、こうした震災の様子や全村避難から帰村、復興への足どり、住民の記憶・証言などを丁寧に展示しています。
なかでも、河道閉塞で多くの方が転居を余儀なくされたという出来事には強烈な印象を受けました。
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そして、もう一つ、強烈な印象を受けたのが生き物の被災でした。
山古志村は古くから「牛の角突き」と「錦鯉」で有名でしたが、全村避難によってこれらの生き物の命を犠牲にしなければならない状況に直面しました。
しかし、家族同然の牛たち、優れた系統の錦鯉たちを簡単に見捨てられるはずがありません。
畜牛家、養鯉家の方々は諦めず、なんとか人間同様に避難できるように手を尽くしました。
そして、一部の命は犠牲になったものの、牛も鯉も、なんとか避難させることができ、現在に至るまで地域を支える大切な産業であり続けています。
被災の辛さ、悲しみを抱えながらも、郷土への強烈な愛情に駆り立てられた人々の努力があって、山古志の今があるのです。
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私が「おらたる」で学んだことは、山古志で起こったことのごく一部に過ぎないでしょう。
しかし、地震がもたらす被害の恐ろしさとともに、低地・平地に比べて居住が難しいはずの山間地である山古志に暮らすことの不思議な魅力も、なんとなく感じられるようになりました。
たぶんそれは、厳しい自然の中だからこそ感じられる人間同士、生き物同士の思いの強さ、温かさ、優しさなのでしょう。
震災関連の展示をじっくり見学したあと、1階のお土産コーナーで神楽南蛮味噌と錦鯉の冷茶グラスを購入してから、「おらたる」をあとにしました。
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外に出ると、雨はさらに強まり、ちょっと危険かもしれないと思わせる降り方に風も強まっていました。
私はせめて、河道閉塞で水没したという木籠集落だけでも通って帰りたいと思い、車を走らせました。
実を言えば、木籠に着くまで「震災復興資料館さとみあん(山古志 木籠 郷見庵)」のことは知りませんでした。
河道閉塞で水没した住宅のうち2棟が「震災遺構」として今も保存されているというので、それらを見ようと付近まで行ったところ、「震災復興資料館」と書かれた建物を見つけて寄ることにしたのです。
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資料館に寄る前に見学に向かった保存住宅2棟は、立地面よりだいぶ高い道路上から眺めるのみでしたが、雑草に囲まれながらも案外良い状態で残されていて、家そのものが現代アート作品のようにも見えました。
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思えば、翌日訪れた越後妻有の「大地の芸術祭」で目にした展示施設も、ほとんどがかつての住宅や学校を保存・利用したものでした。
両地で行われていることは、異なる手法ながら同じ目的に向かっているように思われました。
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続いて「震災復興資料館さとみあん」へ。
前知識もなく訪れたため、まずは1階の直売・休憩処におられる方々に挨拶をして、2階の交流スペースにある展示説明を見学しました。
そこで初めて、「さとみあん」が「山古志木籠ふるさと会」という地域の方々による組織の復興拠点だということを知りました。
そして、「おらたる」で名前を何度も見かけた「松井治二さん」という方が「さとみあん」開設当時の「ふるさと会」の会長だったことを知りました。
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松井さんは、当時の山古志木籠地区の区長を務めた方で、畜牛家として震災で被災した牛たちの救出に奔走したことでも知られていましたが、残念ながら2015年に他界されていました。
それでも私としては、たとえ松井さんにお会いできなくとも、この場所に来ることができて心から嬉しく思いました。
きっと地域の方々は、今でもこの場所で松井さんと言葉を交わすことができるのでしょう。
他所から来た私にも、松井さんは今もこの場所にいるのだと分かりました。
2階の交流スペースを出て1階に降りると、地域の方が三人(+出入りされていた方が数名)おられ、降りてきた私を迎えてくれました。
そして、そのうちのお一方が、改めて震災当時のことを話してくださいました。
その方は、松井治二さんの妻・松井キミさんでした。
キミさんは、木籠地区が河道閉塞で水没したことを説明してくださったあと、私が先に眺めた家が自分の家だったこと、それが建てたばかりだったことなど、当時を振り返って教えてくださいました。
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私が何気なく「今一番の課題は何ですか?」と尋ねると、キミさんは少しの沈黙を置いてから、真剣な表情でこう答えました。
「ここまでの20年は何とかやってこられた。これからが大変。」
キミさんの言葉には、いろんな感情がこもっていたと思います。
復興を支援してくれた人々への感謝や、亡くなられた夫・治二さんの遺志への思い、これからを担う若い世代への期待、歯止めのかからない過疎化への不安。
思えば山古志の人々にとって、伝統的な価値観を共有する「村」というアイデンティティの維持は、中越地震が起こる前からの大きな課題でした。
それが震災という非常事態によって延命されたかたちとなり、この20年が過ぎていったとも言えるかもしれません。
改めて今こうして直面する過疎化は、もはや山古志地区のみが背負う課題でなく、人口減少が進む日本全体の課題です。
キミさんの言葉は、私にとっても全く他人事ではありませんでした。
問題意識があったからこそ、私も山古志に足を運んだのだと改めて気づきました。
キミさんの声を聞くことができて、足を運んだ甲斐があったと心から思いました。
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帰り際、牛の角突きのポスターを頂き、闘牛開催日に再訪するように促されました。
もちろん、誘われたのだから再訪せずには済みません。
今年の10/23再訪は果たせませんでしたが、来年こそはこの日に合わせて足を運びたいと思います。
「さとみあん」でのひとときを終えた頃、ちょうど雨も弱まり、帰路に就く時間となりました。
心に深く刻まれた山古志の印象は、ひと月が経った今も変わりません。
必ず再訪します。
この日の晩は越後湯沢のLittle Japan Echigoに投宿。
翌日から越後妻有の「大地の芸術祭」に向かいました。
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<つづく>