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【小説】眩いばかりの雪の光

鉛色をした厚い雲が空一面を覆っている。そして中東の国にしては珍しく肌寒い。これが奇跡の前兆だとその時の僕には全く思いがけもしなかった。

窓から見えるレンガ作りの家々は赤褐色のぼやけた色をしていて、壁が崩れていてまるで廃墟のようだ。壁をよく見てみると虫が湧いたかのような黒い斑点が無数に存在していた。銃弾によってできた穴だ。町の外を歩いている人なんていなくて、静寂が町全体を支配していた。昼間だというのにモスクに礼拝にいく人影もない。砂埃だけが町を自由自在に行き来している。

 僕と父は窓の外をずっと気にしている。内戦が激しくなって敵が攻めてくるかもしれないと昨日父が言っていた。窓ガラスに映る僕の姿は浅黒い肌をしていて顔の彫りは深い。着ている民族衣装は所々穴が開いていてお世辞にもかっこがいいとは言えなかった。そんなことを考えていると急に周りが騒がしくなった。

「危ない伏せろ!」

 父の声がして次の瞬間に、慎重に積んでいた積み木が突然崩壊したよう音がした。そして割れたガラスの破片が散らばる。

 銃声が断末魔の叫び声のような音を立てて轟く。

 突然僕の目の前の景色が暗くなる。視界には黒ずんだ汚れが目立つ床だけが広がっていた。

 僕の頭は父によって床に押さえつけられたのであろう。床に打ち付けられた痛みなんて小さなものである。命を救ってくれたことに感謝したいが、そんな暇はない。銃声は絶え間なく鳴り響く。

「これで応戦するぞ。アゼル、お前ならできる。もうやるしかないんだ」

 そういって父は僕に銃を投げつける。その鉄の塊は見た目以上に重い。軍隊で使われているような洗練された銃ではなく、ただ人を殺すことができるそれだけの無機質な道具として存在していた。

こんな人殺しの道具、本当は触れたくもなかった。でもそんな弱音この国では言えるわけがなかった。

「僕たちに喧嘩を売ったことを絶対に後悔させてやる!」

 僕は父の指図を待つ。ここで生き残るためには敵と戦うしかないのだ。

「奴らが出たり引っ込んだりしているのが見えるだろ。奴らの動きを見て銃声の止む瞬間に撃つんだ。俺が見本を見せてやる」

 敵はシャツ一枚というラフな格好をしていた。きっとよい服を買うお金もないのだろう。敵とはいえ僕が撃つ銃弾によって人が死んでしまうことに僕は心を痛めた。誰も人を殺したくて生きているわけじゃない。きっと敵だってそうだ。

「相手は悪い奴らだから遠慮はするな。やらなければやられるんだ。いくぞ」

 父の体が躍動する。銃声が止んだ瞬間に父は数発の銃弾を敵に向かって撃ち込んだ。人影がひとつパタンと倒れた。敵がひとり死んだのだ。

「やったね父さん! 僕も絶対やってみせるよ」

 僕は人殺しの息子になってしまった。でも父を責めることなんて到底できない。僕の気持ちは星のない夜空のように何の希望も見いだせなかった。

「アゼル、お前はあそこにいる奴を撃て」

 僕はさらなる闇に包まれる。僕は生唾が喉の奥深くに飲み込んだ。大きな音がしたと思うが、敵の銃声がその全てをかき消す。いくら敵とはいえ殺したくはない。嫌だ、撃ちたくない。でも、それでも僕が生き残るためには撃つしかなかった。銃声がより近くで聞こえるようになった。だんだんと敵がこっちに詰め寄っているのだ。このままでは僕たち親子は殺されてしまう。

 考えたあげく僕は足を狙うことにした。足なら撃っても死なないであろう。僕は撃ち返すタイミングを測る。銃弾が止むリズムが一定であることに僕は気づく。そこを僕は狙った。

 相手の銃声が止む瞬間を狙って引き金を引いた。発砲の衝撃が全身を振るわす。しかし僕の銃弾は敵に当たらなかった。呆然と窓の目の前に立つ僕に、父が飛びついた。

僕の体は宙に浮き、父の体は地上と水平になり窓の枠の中に足が残った。その一瞬に、父がやられた。

 父の足に敵の銃弾が突き刺さった。父が部屋中を転がって痛がる。鮮血が部屋中に不均等に散らばる。僕は血を止めなければと着ていた服をちぎって父の右足のふとももをきつく締め上げた。

「俺は大丈夫だ。お前は人を殺すことに抵抗があるんだな。だったら空撃ちでいい。それだけでも牽制になる。適当に壁に向かって撃て。でないと俺たちが……」

「父さんは安全なところにいて。ここは僕が何とかするから」

 僕は自分で何とかできるものだとは思ってなかった。きっと僕たちは殺されてしまうのだろう。違う民族、違う宗教、ただそれだけのことで殺し合うなんてばかげていると子どものころからずっとそう思っていた。でもそんな考えはここでは、水が湧かない井戸のように何の意味もない。

 それと足を撃てば大丈夫という僕の考えが大きく間違っていたことに気づく。足を撃たれたとしても、命が助かったとしても負う傷は深い。

 日が傾いても銃声は鳴り響いた。ひとり、またひとりとどこからか敵が現れて僕には何人敵がいるのかがわからなかった。とにかく外に向けて銃を撃って牽制した。他の家からも応戦があって僕たちはなんとか命を保っていた。でももう長くは持たないと僕はわかっていた。父の傷口はまだうずくようでずっと顔をしかめている。

 割れた窓からひんやりとした外気が漂った。暖かい気候が一年中続くこの地域にとって珍しいことだ。きっと死の世界に僕たちを誘っているのであろう。闇が完全に支配してからは銃声がたまに聞こえる程度になり、明日の朝までは命があることが保証された。なにしろ電気も止まっていて明かりとなるものが月明かりしかない。しかも月は厚い雲に覆われていて辺りは真っ暗だ。蝋燭に明かりを灯そうものならそれめがけて攻撃されるのみ。

「お前は寝て明日に備えろ。俺は足手まといにはなりたくない。見張るくらいならできる」

 僕も見張りを申し出たが、あまりの闇の深さに敵の動きもなくまた父も見張っていたので安心感が生まれ、やがて緊張感も途切れ、僕はいつの間にか眠りに落ちていた。




 眩いばかりの光によって僕は目覚めた。

 中腰になって慎重に窓から外の様子を見る。空からは白い粉のようなものが絶え間なく降り続いていた。町には見たことのない白い何かが一面に広がっている。その白い何かがレンガ造りの家の屋根の上から太陽の光を反射させている。モスクの黄色い丸みの帯びた屋根が地面の白を黄金色に染めていた。これはいったいどうしたことなのだろう。見張っているはずの父もいない。そしてもう明るいのに一発の銃声も聞こえない。昨日まで目前にいた敵兵の気配は全く感じられなかった。

 玄関は開いていてそっと外を覗いてみると玄関先で父がじっと固まっていた。怪我をした方の足をかばいながら吐く父の息は不思議と白い。

「雪だ」父は凍えながら天を見上げた。「これでは寒くてあの装備じゃずっと外にいられない。敵は引き上げたんだ。それにこんな状態じゃすぐには攻めてこられない」

 雪によって思わぬ停戦がもたらされた。僕は雪というものを知識として知ってはいたが見たのは生まれて初めてであった。

雪の白さは眩く、ただ存在しているだけで初恋の人を慕うような透明感のある気持ちになる。触れると井戸水のように冷たく気持ちいい。

僕は家にある薄い服を何枚も重ね着をして白く輝く町を歩いた。子どもたちが雪を丸めて投げて楽しそうに遊んでいる。それを大人たちが温かい目で見守っている。こんな光景が昨日まで戦場だった場所で見られるなんて夢のようだ。

 もう銃を手にしようとは思わなかった。人殺しなんてまっぴらだ。今までは戦場から逃げることなんて恥だと思っていた。でも和やかな世界で平和に暮らすことは決して悪いことじゃない。雪がそれを教えてくれた。初めて平和な世界を目の当たりにしてそう思えた。

 僕はこういう平和な世界でずっと生きていきたい。その祈りを今日これからモスクで願おう。

 モスクに向かう途中、肩に何かがぶつかり、白い雪しぶきが顔にかかってきた。少し離れたところに五歳ぐらいの男の子がこっちを指さしながら笑っている。男の子の投げた雪玉が僕の肩に当たったのだ。「やったな」僕は笑いながら雪を丸めだした。男の子の顔に雪玉を当てるのは可愛そうなので足を狙うことにした。どうやら僕には足を狙う癖があるらしい。でも雪玉ならどこに当たっても大丈夫だと思い直し、僕は笑顔で男の子目掛けてゆっくりと雪玉を投げた。

――光の世界がこの町一面に広がっていた。


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