母として『君たちはどう生きるか』を観たら宮﨑駿が厳しすぎて号泣した話
大ショックを受けた。涙が止まらず席から動けず仕事もできなくなった。宮﨑駿のことを思うと未だにずーんと心が沈む。凡人には理解できないほど大きな葛藤を抱えながら、長年仕事をしていたのだとわかった。葛藤とは「アニメーションは虚構である」ということ。自分が生涯をかけて取り組んだ仕事が虚構であり、現実世界では何も影響を及ぼさず死んでいくのか、ということ。
観客はこの作品の意味するところに気付いてしまったら、自分の人生観を批判的に見直さざるを得ない。でも見直しただけで、結局現実は何も変わらないのかもしれない……。
この記事では、前半で作品中に散りばめられたメタファーの解釈を書きます(約4,500字)。後半で私が0歳児を抱える母としてこの作品を見た感想を書きます(約1,500字)。
なお、執筆にあたっては他のnote記事を複数参考にさせていただいたので最後に引用元のリンクを貼っています。
●メタファーの解釈
・炎の中を走るシーン
過去のジブリ作品に出てくる「走るシーン」は、走っている人を客観的に見た描写だった。アシタカが走るシーンが目に浮かぶ。しかし今回の眞人が炎の中を走るシーンは、眞人の視点から描かれていた。炎や消防団は輪郭がぼやけ、火の粉が自分に降りかかってくる。
宮﨑駿は戦争経験者であり、空襲で逃げ惑ったことがある。宮﨑駿=眞人、今回の主人公は宮﨑駿であると冒頭で明らかになる。
・自分の母の死と2人目の母の存在
宮﨑駿の父には2人の妻がいたという。1人目の妻との間には子どもがないうちに妻が亡くなってしまい、2人目の妻との間に生まれたのが宮﨑駿含む子どもたちだったそうだ。眞人は設定が少し変えられているが、宮﨑駿が自分の父や母について考えるとき、もう一人の母に思いを馳せていたことは容易に想像できる。
眞人が2人目の母を受け入れられず、実の母の夢を見てベッドで泣いているシーン。母視点で見るともらい泣きせずにはいられない。私の子はまだ0歳で、今私が死んでも記憶に残らない。それでも子どもを遺して死ぬのはどんなにつらいことか……。
・「おいしくない」
宮﨑駿は食べ物を美味しく描く天才である。ジブリ飯の本が出るほど、皆食べたくなる料理が作中に出てくる。
しかし眞人が女中たちと食べる料理は控えめに言ってもおいしくなさそうで、眞人ははっきりと「おいしくない」と言う。
ジブリに出てくるご飯は美味しい。しかし現実世界で日常的に食べるテキトーに作ったご飯や外食はそんなに美味しいか? もちろんそうではない。このシーンで現実は「おいしくない」と強調している。
・「美しいですね」
眞人の父・ショウイチは戦闘機を作る仕事をしており、戦争特需で大儲けしている。線路の故障で物流が止まり、一時的に戦闘機のキャノピー(座席を覆うガラスの部品)を自宅に保管することになる。それを見て眞人が「美しいですね」と言う。
キャノピーはオウムの眼の殻そっくりで、ナウシカの宝物だ。現実(=眞人の世界)では殺戮兵器であるものを、眞人(=宮﨑駿)は「美しいですね」と言い、アニメの世界でナウシカの宝物にした。宮﨑駿の葛藤が表れている。
・中庭の建物
ナツコは中庭の建物を「大叔父が建てたもの」と言う。昔から住む女中たちは「空から石が降ってきて、辺り一面焼け野原にした。大叔父が石を貴重なものだと言い、保存するため周りに建物を建てた。その建築で大勢が亡くなったり怪我をした」と言う。
完全に原爆だ。私がこの映画を見たのがたまたま8月6日で、胸をえぐられる思いだった。
原爆をきっかけに戦争は終わり、アメリカがやってきた。アメリカはアニメーションという新しい文化を持ってきた。空から飛んできた石(=アメリカ由来の文化)をありがたがって、大叔父(=宮﨑駿)が建物(=ジブリ)を建てた。
宮﨑駿はアメリカに原爆を落とされた日本で、アメリカ由来であるアニメーションで仕事をしてきた。戦争経験者にとって避けがたい葛藤がある。
・アオサギの不気味さ
ジブリ作品は結構気持ち悪いシーンが多い。『もののけ姫』も『風の谷のナウシカ』も『千と千尋の神隠し』も、うげっとなるシーンがある。しかしどれもアニメーションの世界の出来事だった。
アオサギは最初不気味な気持ち悪い存在で、途中からうざいけど離れられない存在になっていく。そして最終的に眞人はアオサギと「友達」になる。今作では他にも魚の解体や腐敗し液状化する死体のようなシーンもある。
宮﨑駿は手法として気持ち悪いシーンを描く技術を持っており、今までは虚構の世界を描くのに使っていたが、現実の世界も気持ち悪いよ、ということを表している気がする。
・「眞人、真実の人か。死に近そうな名前だ」
私が正しい、という人はだいたい正しくないというのが世の常である。眞人の父・ショウイチの漢字は私が見落としてなければ作中に出てこなかったが、なんとなく「正一」な気がする。
・下の世界のワラワラ
母にはワラワラがしなぷしゅに見えます!!(母にしかわからないネタ)
それはさておき、ワラワラは精子だ。『もののけ姫』のこだまみたいだが、ワラワラは白くて小さくて、上の世界に飛んでいって「生まれる」ので明らかに精子。DNAの二重らせん構造ではなかったが、似たようならせん形を描き、ワラワラは飛んでいく。
・「近頃ワラワラは飛べなかった」
戦争が深刻化し、出征する男たちが増え、生まれることができなかったワラワラが多数いた。
・ワラワラを食べるペリカン
ペリカンは不可抗力でなす術なく、ワラワラを食べているという。本来ならば、そんなことはしたくないという感じ。ペリカンは戦争や国家権力と見ることもできる。
一方で、「不可抗力でなす術なく」生き方を決定されたのは戦後世代であり、宮﨑駿世代の悲哀を表しているともとれる。焼け野原から始まり、なんでもいいからがむしゃらにやるしかなかった。高度経済成長期があり、バブル期があり、とにかく走り続けるしかなかった。死ぬ間際になって、自分はワラワラを食べたかったのか? いや食べたくなかった、と自問自答する戦後世代の後悔を感じる。
・ワラワラを守るヒミ
ヒミは別の世界では眞人の母・ヒサコとなる。ワラワラ(=精子)と同じ立場に立っているということで、卵子や母性そのもののメタファーと捉えられる。
名前からして卑弥呼が想起されるが、火を操り呪術的なパワーでワラワラや眞人を助けていくという点でイメージがつながる。
・塔の中で勢力拡大し力を得るインコ
ジブリファン。少し意地悪な言い方をすると、盲目的なジブリファン。塔がアメリカから来たアニメーションのメタファーであることは既に述べた。塔の中を埋め尽くす勢いで増殖し、熱狂的に振る舞い、大叔父(=宮﨑駿)に「もっと作品を作ってくれ!」と言わんばかりである。
しかしインコ(=ジブリファン)は現実世界では何の力も持たない、糞をまき散らすただのインコである。
宮﨑駿がショックを受けたエピソードがある。
インコは塔が崩壊するまで現実世界に出ていかなかった。大叔父であり眞人である宮﨑駿がジブリを終了させるまで、擦り切れるまでビデオを見て(DVDやBlu-rayの時代は擦り切れなくなってしまったが)野山に入っていくことはなかった。そしてこれからも多分ないだろう。
・13個の積み木
大叔父(=宮﨑駿)は13個の積み木で世界を作る。宮﨑駿が単独で監督を務めた作品は計13作品であった。
ルパン三世カリオストロの城
未来少年コナン巨大機ギガントの復活
風の谷のナウシカ
天空の城ラピュタ
となりのトトロ
魔女の宅急便
紅の豚
もののけ姫
千と千尋の神隠し
ハウルの動く城
崖の上のポニョ
風立ちぬ
君たちはどう生きるか
・悪意のある石
積み木は木ではなく、石でできていた。石には悪意があるという。
木が自然の代表とするならば、対比となる石は自然を破壊する人間・文明か。石は宮﨑駿の作品であり、一見美しい石には悪意を含んでいた。例えば『風の谷のナウシカ』や『魔女の宅急便』で空を飛ぶ夢を描いたが、空を飛ぶ技術は戦争に使われている。
眞人は自分も悪意を持っていると告白した。眞人は宮﨑駿であり、全ての人間と捉えることができる。
・ナツコに出産させたいインコ
ここから宮﨑駿の継承問題が関わってくる。インコは、現実世界から連れてきたナツコに出産させようとする。塔の中で新しい命が生まれれば、ジブリアニメは次世代へ続く。直接的に宮﨑吾郎を指しているとは思わないが、押井守、庵野秀明、新海誠といった次世代のアニメーターが想起される。
しかし結局ナツコは、現実世界に戻る。
・大叔父は眞人とヒミに全てを託すが、断られる
大叔父(=宮﨑駿)は13個の積み木を重ねる仕事を眞人とヒミに託そうとする。一瞬、次世代のアニメーターたちを指しているのかと思ったが、眞人は現実世界に帰る選択をする。眞人は現実世界に生きる全ての人のメタファーでもあった。アニメーションの世界に囚われず、不味く醜い現実世界で生きていく。
とりあえず、大叔父の作った建物(=ジブリ)をそのまま継承してくれる人はいない。眞人とヒミはそれぞれの現実世界に戻り、建物は崩壊した。大叔父、終了。
次世代のアニメーターがまた建物を作るのかどうかはわからない。それは各アニメーターが考えていることだろう。
・終わり方
眞人は現実世界に戻り、戦争は終わり、ナツコは出産して眞人の弟がいる。大叔父の作った建物がなくなっても、なんでもない日常の風景が続く。大叔父の作った建物なんて、元からなくてもよかったのかもしれない。でも、眞人は建物の中で体験したことが心に残って、何か変わったのかもしれない。
ビックリするほどあっさりした終わり方で、水色の画面になって、米津玄師の歌が流れる。エンドロールで山時聡真、菅田将暉、あいみょんと続く。この流れに号泣してしまった。宮﨑駿は若者に希望を託している。と思いたいのだが、数秒前に「大叔父の作った建物なんて、元からなくてもよかったのかもしれない」と思ったのだった。一人の人間が生涯をかけて一生懸命仕事に取り組んでも、無意味かもしれない。というか宮﨑駿ほどの世界で認められる人の仕事が無意味だったら99.9%の人の仕事は無意味に違いない。私がやってるコンサルの仕事なんか、ゴミくずのほこりにもすぎない。米津玄師や菅田将暉の方が余程仕事してると思うけど、無意味かもしれない。しかし現実世界で生きていくために仕事をし、一部楽しんでいる部分もある。
例えば私が米津玄師の立場で、宮﨑駿に作曲を依頼されたとして、「結局は若者に希望を持っているのでそういう意図を表す曲を書いてほしい」と依頼されるならまぁまだやりやすく思える。しかし「生涯かけて自分のしてきた仕事は無意味だと悟った。君の仕事もそうかもしれない。この作品は私の仕事を終わらせる作品だ。曲を書いてほしい」と言われたら、もう逃げ出したい。無理っしょ。泣き寝入りしちゃう。
でも米津玄師が作った「地球儀」はまさにこの作品のテーマ(=宮﨑駿の告白)を表していて、映画館で初めて聴いたけど歌詞がすっと頭に入ってきて、エンドロールが見えないほど涙がこぼれた。
ニヒリズム、という言葉は知っていた。しかし宮﨑駿の生涯をかけてニヒリズムを提示されると、衝撃が大きすぎて耐えきれないほどショッキングだった。
●母としての感想
私には今0歳でもうすぐ1歳になる子がいる。妊娠期から含めて約2年、多少不安なことはあれど、基本的に希望でいっぱいだ。0歳の成長は著しい。1年で身長が30cm、体重が7kg増え、泣くしかできなかったのが「じぇじぇじぇ」「まんまー、まんまー」と喋り、寝転がって座って立って、ハイハイでどこまでも行く。
希望溢れる0歳をわざわざ失望させる必要は全くないので、毎日楽しくなるように色々と工夫している。また、育児で大変ななか健全なメンタルを保つため、この間できるだけネガティブなニュースには触れないよう心掛けていた。
結果的に、脳内ハッピーお花畑状態で約2年過ごしてきた。それがこの映画を観たばっかりに、急に現実に引き戻されてしまった。そうだった、現実は不味くて醜い。
もし妊娠とか関係ない独身時代だったら、ウクライナについてもう少し理解を深めていただろう。しかし今、戦況について何も知らない。
産後復職し、勤務時間が限られる中で価値のある仕事をしたいと思っていたところだった。でも私が「価値がある」と思っても、結局無意味。現実は何も変わらず、糞をまき散らすインコがいるだけ。
私の会社は割と本気で「明るい未来社会を作ろう」と言っていて、このように主張することを仕事としている部分がある。冷静に考えたら日本は人口も減り技術力も下がり、衰退する未来しか見えないのに、何言ってんだと石を投げられても仕方がない。
仕事に対する無価値感と恥……。仕事のやる気を根こそぎかっさらっていった。
そして何より、自分の子を含め次世代にこの嘆かわしい現実を伝えていかないといけないのか、という絶望。今の0歳児は『いないいないばぁ』とか『ちいさなうさこちゃん』とか平和で穏やかな世界しか知らないのに、いつか世の中には暴力や虚偽が溢れていること、仕事は無意味かもしれないことを知る日が来るのかと思うと涙が出てくる。無垢な赤ちゃんがいかに尊いことか。
宮﨑駿は今作で、今まで抑圧していたものをすべて取っ払って、言いたいことを全部正直に言って終わらせたように感じた。ここしばらく脳内ハッピーお花畑で生きていた0歳児を抱える母親にはとても厳しいメッセージだった。ちょっと、本当に、どうしたらいいかわからなくなった。
でも私は明日も『いないいないばぁ』や『ちいさなうさこちゃん』を読む。0歳はまだ厳しい現実を知らなくていい。
《終わり》
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