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umi no oto
2022年4月19日 18:31
無治療になって、不安と孤独でしばらく時間がかかりましたが緩和ケア内科の先生やスタッフの方々の温かさのおかげで今の自分と向き合う気持ちが少しずつ湧いてきて少し先の未来を考えて過ごせるようになってきました。体調などで落ち込む日もありますが。。。2020年のオリンピックが延期になり1年後の2021年に開催されました。2022年の冬季オリンピックも終わりました。私、まだ生きていま
2022年4月19日 18:16
転移が見つかって、乳腺外科の担当医から残された時間を少しでも長く日々をハッピーに過ごすための治療をしていきましょうと言われました。オリンピックの頃を目指しましょうとも。。。今の状態では治療の方法が少なくて、閉経後の治療法のほうが沢山あるので、生理を止めて治療をすることになりました。その時は、まだ頑張れば生きられる!と前を向いていて死を現実として考えていませんでした。しか
2022年4月19日 18:05
再びホルモン療法(タモキシフェン )がはじまりました。やはり重い疲れや人と話せない、集中力思考力の低下、うつ症状で大変でした。なんとか生きている感じでした。子供たちとの生活で精一杯でした。でも 子供たちと生きたいという気持ちでタモキシフェン を飲み続けていました。体調の良い時に娘と出掛けたり、誕生花を探すことが楽しみでした。その頃、胸を締めつけられる痛みがあって循環器内科
2022年4月19日 17:53
5年のホルモン療法(タモキシフェン )の治療を終えて、定期検診のみになってその間隔もあいてきて年に1度の検診に。。その頃から少しずつ思考やさまざまな心身の辛さが楽になって気持ちも前に向き始めた頃でした。子供たちが生活しやすいところへ引っ越ししました。2015年の夏の頃です。そこでまた転院をして、すぐの検診で超音波の検査をしていた時技師さんの様子がおかしくて時間もかかって。
2022年4月18日 13:17
関東に引っ越した頃長男中2、長女は中学、次男は小学校へ入学しました。入学式は、午前中に小学校、午後から中学校、ヘトヘトになりました。病院も転院して、新しい生活が始まりましたが体調や治療の辛さは変わりませんでした。ただ、好きな海の近くに住めたのが救いでした。長男は学校の先生に協力して頂いたりZ会の通信で頑張って夢を叶えるための高校に合格できそしてずっと学びたかった大学に
2022年4月18日 12:51
この頃、気がついたのは長男がお守りのようにしていた行きたかった大学の赤本を隠してしまったことです。「僕は不器用で自信のあることが何もなくて 頑張れるのは勉強だけ。」と言っていたのに。。。気がついた時は、悲しくて、自分の無力さに腹が立って。。。私は、癌になって、生きていることは当たり前ではないのだと思うようになりました。そう思うと、少しでも長く子供たちと一緒にいたい!という気持ち
2022年4月18日 12:45
放射線治療が終わってホルモン療法が始まりました。リュープリン2年、タモキシフェン 5年。治療開始しばらくして、今までの生活が出来なくなりました。私の場合。。。疲れ、ホットフラッシュ、思考力、意欲、集中力の低下。。。⚪︎子供の勉強を見てあげられない⚪︎学校のお知らせプリントが読めない (本が読めない)⚪︎食事、お弁当の準備にすごく時間がかかる⚪︎人と上手く話せない⚪︎片付
2022年4月17日 22:18
2007年5月に左乳がんの温存手術をしました。5cm弱くらいの腫瘍でステージ2でした。その頃、私1人の子育てだったので寝込むわけにもいかず、先生と相談して放射線治療後、ホルモン療法をすることにしました。放射線治療は、確か。。。5〜6週間。(土日以外毎日)年長の次男を連れて、梅雨の雨の中毎日電車で通いました。放射線技師さんの励ましや治療中は次男と遊んでくださってなんとか治療
2022年4月17日 22:08
2007年の春先に左胸に気になるしこり。。。忙しくて、気になりながら後回しに。地元の病院で細胞診をして乳がんが見つかりました。そこでは温存手術が出来なかったので少し離れた街の病院へ。。。電車が1時間1本、約40分くらい。それから路面電車に乗って。病院に着くまでは、1時間くらいだったかな。。。再び細胞診をして、どうか間違いでありますようにと祈りながら、数日後の検査結果の日を待って