日記:4/22(歩くこと)
産まれ、成長し、死んでいく。その過程を歩みと例えるならば、僕は長い間立ち止まっていたことになる。成長もせず、退化もせず、ただ時間だけがじりじりと過ぎていく。そんな日々を何年間か送っていた。
人生は、何かを成し遂げるには短すぎるし、何もしないには長すぎる。どこで読んだ言葉かは忘れてしまったが、その通りだと思う。人生100年時代だなんて言葉も聞くようになって、その長さの途方もなさに気が遠くなる。
そんな長い人生において、人間に置かれた一つの命題がある。どれだけ遠くに行けるか、ということ。僕らは残り数十年の人生で、どこまで遠くに行けるのだろうか?
遠くに行く、と言う言葉には含みがある。まず、「遠く」とはどういうことか?それは空間的な位置関係を支持しているのか?ということ。次に、「行く」という言葉がどのような行為を意味しているか?ということだ。
「遠くに行く」という表現ははいろいろな作品で使われ続けている。
これらの歌詞の中で、「遠くに行く」という言葉は比喩的に使われている。米津玄師は別にアメリカに行きたかったわけではないし、n-bunaは宇宙旅行をしたかったわけではないだろう。しかし、比喩は元来の意味があるからこそ比喩として機能する。「あなたはまるでアラマタキだ」と言われても、なんのことかわからないだろう。アラマタキという言葉に意味がないからだ。だから、「遠くに行く」という言葉の素直な意味合いについてまずは考えてみる。
遠くに行くのが好きだ。言い換えれば、知らない街に行くのが好きだ。知らない街の、知らない通りで、知らない店に入る。知らない店員が知らない料理を運んでくる。そんな時間がたまらなく好きだ。
遠くに行くということは、一般に「知らない場所へ行く」ということと同義である。人が「何処か遠くへ行きたい」と言った時、それは遥か遠くの故郷に帰りたい、だとか、昔留学していたイギリスにまた行きたい、といった思いではないだろう。それはまだ見ぬ地への憧憬であり、既知の自己からの脱却である。
隣の芝生は青い、という言葉がある。ことわざというのはある程度の真理性を帯びているから現代まで伝わっているわけで、例に漏れずこのことわざも人間の性を的確に言い当てている。人間は自分自身に満足できるようには出来ていない(と僕は信じている)。だからこそ人は自分自身から抜け出したいと願い、自分以外の誰かになりたい、ここでない何処かに行きたいと切望する。
一人称が指示した「遠く」でも、他の誰かが暮らしている。しかし僕らは例えばスウェーデンの漁師になりたい訳ではないだろう。僕らは自分とは違った誰かになりたいと、曖昧に、しかし確かに願っているのではないか。
しかしそれは無理な話である。あなたはいつまでもあなただし、僕もどこに行っても僕である。つまり、自分という意識主体は変えようがないのだ。
その代わりに、僕らは「遠くへ行きたい」のではないか。
自分という一人称が変わることはありえない。ただ、どこにいるかという位置情報は変えることができる。できる限りいつもの場所から離れた時、その位置情報の隔たりは自我の変化に寄与しうるだろうか?
自己認識の核の部分は変わらないにしろ、表面的には少し変化があるのではないか。新しい土地の、新しい空気を吸った時の気持ちを思い出してほしい。日常の自分とは違う自分を感じないだろうか。それが、遠くに行くと言う言葉の意味である。
「遠くに行く」という言葉は「旅に出る」という言葉に近い。しかし前者がより概念的であるのに対し、後者は現実的である。旅には終わりがある。遠くに行っても、家に帰らなくてはならない。そのため旅は始点と終点を感じさせる。一方で「遠くに行く」ことに終点はない。「遠く」に行った時、その「遠く」はすでに遠くではない。すなわち「遠くに行く」ことは再帰的に永久に続くものである。ボイジャーが宇宙の果てまで進み続けているように、遠くに行くことに終わりはない。
どんなに遅くても、歩き続けていれば無限に遠くに行ける。それは事実だ。ではこれを比喩的に捉えてみる。僕らは日々を歩み続ける限り、ずっと遠くに行ける。日々新しい何かを感じ続ける限り、あなた自身は遠くに進んでいるのである。
しかしもしここで別の立場を取ってみたらどうだろう。前述の「遠くには行けない」と言う立場だ。一歩進む。新しい場所に立つ。しかしもうここは新しい場所ではない。また一歩進む。やはり遠くには行けない。
思うに、この二つの考え方があるからこそ、「遠くに行く」ことは魅力的なのではないか。遠くに行くことは簡単なことなのに、絶対に成しえないことでもある。だけど人は今日も歩く。遠くに行くために。